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歴史も教義も制度も無視して、用語も正しく理解しようとせず、「宗教専門新聞」を称しているのは恥ずかしい。ましてや記者の暴力や差別発言や脅迫的発言は論外。
「殺してやる」「お前の脳みそは腐っている」「お前は強姦殺人犯のようだ」。これが「葬式をしない」代わりの21世紀劈頭の「ともいき」の宣言なのか。
「読売新聞では暴力は当たり前だ」(真偽は不明)と何度言われても、本願にはほど遠い。「俺は神戸で人が燃えているのを見てきたからな」と自慢するのが「一流のジャーナリスト」か。
宗教団体・大学・メディアは「平和憲法を守れ」と主張する以前に、自ら刑法を侵さず、労働基準法を守るべきだ。「愚者の自覚」「智者のふるまいをしない」を言い訳とせず、人権同和活動を閉鎖せず、総本山警備員の集団リンチ傷害事件の隠蔽をやめるべきだ。国民の税金も使われた上で、血が流れた事件を曖昧にして落慶法要を行うつもりか。「お前を人権侵害で訴える」というなら早く訴えたらいかがか。
宗教界、言論界から暴力や差別が無くなるにはまだ無量年かかるのか。まあ無理か。

覚園寺

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2020年7月25日 (土)

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覚園寺(かくおんじ)は、神奈川県鎌倉市二階堂にある真言宗寺院。真言宗泉涌寺派。真言院と号す。山号は鷲峰山。

目次

歴史

大倉薬師堂が前身。薬師堂ケ谷の地名はこれに由来する。 1218年(建保6年)、執権北条義時は霊夢に感じて大倉の地に薬師堂を建立。 7月に起工し、12月2日に落慶供養。新御堂とも呼ばれた。 1242年(仁治3年)、1251年(建長3年)に焼失。 1263年(弘長3年)北条時宗が修復。

1296年(永仁4年)、執権北条貞時が心慧智海を開山に迎えて寺院としての体裁を整えた。 泉涌寺系の真言・律・禅・浄土の四宗兼学の寺院となった。

1333年(元弘3年/正慶2年)12月21日、後醍醐天皇が勅願寺とする。 1337年(延元2年/建武4年)火災。 1354年(正平9年/文和3年)修復。現在の堂宇はこのときのものか。足利尊氏自署の梁牌銘が残る。

1439年(永享11年)火災。大楽寺が類焼。

1689年(元禄2年)仏殿改修。 1830年(天保1年)庫院焼失。この頃には無住となっていた。 1843年(天保14年)渋谷勝明という人物が発願して修復。 明治4年頃、大楽寺と理智光寺を併合。

1905年(明治38年)、旧大楽寺本堂を蓮華院跡に移築して愛染堂とする。1928年(昭和3年)現在の場所に移築。

1953年(昭和28年)薬師堂修復。

伽藍

現在

  • 薬師堂:仏殿
  • 地蔵堂:
  • 愛染堂:旧大楽寺本堂を移築改造したもの。
  • 千体堂:小地蔵堂
  • 庫裏:
  • 百八やぐら

子院

全て廃絶。

  • 五峰寺:
  • 大楽寺
  • 平等寺:
  • 一心坊:
  • 大悲院:
  • 泉龍院:
  • 光明院:
  • 蓮華院:

組織

住職

かつては長老とも。

  • 1心慧智海(?-1306)<1296-1306>:泉涌寺6世願行坊憲静の弟子。忍性にも学ぶ。1306年(徳治1年)4月27日死去。東大寺大勧進15世。境内に墓の宝篋印塔がある。道照房。
  • 2大燈源智()<>:泉涌寺9世。境内に墓の宝篋印塔がある。
  • 3暉山鑑恵
  • 4朴艾思淳(1278-1363)<-1342>:泉涌寺12世。1339年泉涌寺長老。1342年まで覚園寺も兼務。
  • 5山翁浄真()<1342->:
  • 思怕()<>:一説に泉涌寺長老。
  • 8悦岩思咲()<>:
  • 法爾
  • 思卍()<>:1422年『鎌倉鷲峰法流伝来記』。
  • 大野秀文
  • 大森順雄
  • 30仲田昌弘
  • 31仲田順昌

資料

古典籍

  • 「覚園寺略縁起」:中野猛編1996『略縁起集成第2巻』勉誠社
  • 文化庁文化財保護部美術工芸課1985『覚園寺文書目録(97通)8巻1幅』

図録

  • 鎌倉国宝館編1968『覚園寺展―その歴史と文化財』
  • 鎌倉国宝館編2005『覚園寺―開山智海心慧七百年忌記念』

調査報告

  • 1939『神奈川県史蹟名勝天然紀念物調査報告書7』
  • 小林花子1966「鎌倉覚園寺二世源智律師の周辺」『金沢文庫研究』12(5)
  • 覚園寺編1966『重要文化財覚園寺開山塔・大灯塔修理工事報告書』
  • 西村強三1968「鎌倉覚園寺開山塔納置品ほか―新指定重要文化財研究・紹介」『東京国立博物館研究誌』
  • 伊原恵司1970「覚園寺薬師堂の屋根葺替調査報告」『神奈川県文化財調査報告書32』
  • 美術院編1974『覚園寺木造薬師三尊木造十二神将立像修理報告書』
  • 覚園寺境内発掘調査団編1982『覚園寺境内発掘調査報告書』
  • かながわ考古学財団2001『覚園寺総門跡東やぐら群―かながわ考古学財団調査報告115』
  • かながわ考古学財団2002『覚園寺総門跡東やぐら群2―かながわ考古学財団調査報告138』
  • 神奈川県教育委員会編2003「覚園寺薬師堂」「覚園寺愛染堂」『関東地方の近世社寺建築3―近世社寺建築調査報告書集成5』
  • 朽津信明・森井順之・范子龍・秋山純子2004「鎌倉市・百八やぐらの劣化と水環境」『保存科学』
  • 朽津信明・李心堅・関博允・森井順之・遠藤努2005「鎌倉市百八やぐらの保存を目的とした亀裂計測」『保存科学』
  • 鎌倉市教育委員会2007『史跡覚園寺境内保存管理計画書』
  • 博通編2018『覚園寺旧境内遺跡発掘調査報告書―博通発掘調査報告書88』
  • 『百八やぐら調査報告書』

文献

  • 堀田璋左右1900「鎌倉覚園寺の百八巌窟」『歴史地理』2
  • 井上章1965『覚園寺』
  • 大三輪龍彦1966「覚園寺―武将の墓」『国文学解釈と鑑賞』31(6)
  • 三上進1981「覚園寺薬師三尊考」『鎌倉彫刻史論考』有隣堂
  • 大森順雄1991『覚園寺と鎌倉律宗の研究』有隣堂
  • 大森順雄1993『覚園寺不忘記』
  • 田辺三郎助2001「覚園寺薬師堂諸像に造立について」『田邉三郎助彫刻史論集』中央公論美術出版
  • 新井裕美2010「鎌倉市覚園寺の黒地蔵参りについて」『民俗学論叢』
  • 星野玲子2012「覚園寺裏山やぐらに関する比較調査―5号~10号窟について」『鶴見大学紀要―第4部―人文・社会・自然科学編』[1]
  • 星野玲子2012「覚園寺裏山やぐらに関する研究―『百八やぐら調査報告書』を資料として」『鶴見大学紀要―第4部―人文・社会・自然科学編』[2]
  • 星野玲子2013「覚園寺裏山やぐらに関する比較調査―11号~17号窟について」『鶴見大学紀要―第4部―人文・社会・自然科学編』[3]
  • 星野玲子2014「覚園寺裏山やぐらに関する比較調査―40号~45号窟について」『文化財学雑誌』
  • 星野玲子2016「覚園寺裏山やぐらに関する研究―46号~50号窟について」『鶴見大学紀要―第4部―人文・社会・自然科学編』[4]
http://shinden.boo.jp/wiki/%E8%A6%9A%E5%9C%92%E5%AF%BA」より作成

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