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関羽信仰
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2020年7月1日 (水)
(関帝から転送)
関羽(?-219)は、三国時代の蜀の武将。軍神。財神。劉備に仕え、活躍した。曹操に捕らえられたが礼遇され、その恩を同軍の客将として敵を倒して返した。のち赤壁の戦いで曹操を破る。臨沮で子の関平と共に戦死。唐代頃から軍神として信仰され始め、歴代の朝廷がその忠義を讃えて王侯の称号を追贈し、ついに皇帝位に着いた。祠廟を関帝廟という。仏教でも伽藍の守護神などとして崇敬されている。岳飛と合祀される場合は関岳廟と呼ばれる。
目次 |
年譜
略歴
年 | 月日 | 事項 |
---|---|---|
不詳 | 月日 | 出生 |
184年(中平1年)頃 | 郷里を出奔してたどり着いたタク県(北京市)で、劉備や張飛と知り合り、劉備の臣下となる。『三国志演義』では3人が義兄弟の契りを交わした「桃園の誓い」として描かれる。 | |
184年(中平1年)頃 | 黄巾の乱の発生にあたり義勇軍として挙兵した劉備に従い、各地を転戦。 | |
198年(建安3年) | 劉備らは曹操軍に従う。 | |
199年(建安4年) | 劉備らは曹操に反旗を翻した。 | |
200年(建安5年) | 劉備軍は曹操軍の攻撃を受け敗退し袁紹の元に逃れる。関羽は曹操軍の捕虜となり、やがて降将として迎えられた。 | |
200年(建安5年) | 4月 | 曹操軍に従っていた関羽は「白馬の戦い」で、袁紹軍の将の顔良を打ち取った。これを置き土産として関羽は劉備の元に戻った。 |
201年(建安6年) | 劉備軍は荊州の劉表のもとに身を寄せた。 | |
208年(建安13年) | 曹操軍と孫権・劉備連合軍が激突した赤壁の戦い(湖北省南東部、揚子江南岸)では、水戦で敗れて陸に上がってきた曹操軍を関羽が待ち受けて撃ち破った。 | |
213年(建安18年)頃 | 劉備軍の益州攻略にあたり、関羽は荊州の守護役として留まる。 | |
219年(建安24年) | 劉備が群臣らの奏上を受け漢中王を称すると関羽は前将軍に任じられた | |
219年(建安24年) | 12月 | 「樊城の戦い」で曹操を苦しめるが、孫権軍と曹操軍の挟撃に遭い、臨沮で敗死した。享年不明。 |
死後
- 関羽の首は曹操の下に送られた。曹操は諸侯の礼で洛陽に葬った。(関林)
- 孫権は諸侯の礼で胴体を当陽に葬った。(関陵)
- 260年:蜀漢の皇帝劉禅が「壮穆侯」を贈る。
- 1096年:北宋の皇帝哲宗が荊州玉泉祠に顕烈廟の号を下賜。
- 1599年頃:関林に祠廟が建てられた。
- 1614年:明の万暦帝が「三界伏魔大帝神威遠鎮天尊関聖帝君」と追贈。
- 天啓年間:明の天啓帝が「三界伏魔大帝神威遠震天尊関聖帝君」と追贈。
- 1652年:清の順治帝が「忠義神武関聖大帝」と追贈
- 乾隆年間:清の乾隆帝が「忠義神武霊佑関聖大帝」と追贈。
- 嘉慶年間:清の嘉慶帝が「忠義神武霊佑仁勇関聖大帝」と追贈。
- 道光年間:清の道光帝が「忠義神武霊佑仁勇威顕関聖大帝」と追贈。
関連人物
- 先昭公:始祖。
- 光紹王:曽祖父。先昭公とも。
- 裕昌王:祖父。
- 成忠王:父。
- 関平:関羽の子
- 周倉:関羽の側近。伝説的人物。
関帝廟に祀られることがある。
一覧
中国
- 関林:河南省洛陽市洛龍区関林鎮。関羽の首塚。
- 関陵:湖北省当陽市。関羽の胴塚。
- 解州関帝廟:山西省運城市塩湖区解州鎮。関羽の故郷。
- 常平関帝廟:山西省運城市。関羽の故郷。父祖を祀る。
- 荊州関帝廟:
- 東山関帝廟:福建省東山県銅陵鎮。