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青龍寺
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2017年12月16日 (土)
青龍寺(しょうりゅうじ、せいりゅうじ)は、中国長安新昌坊にあった密教寺院。空海旧跡。(参考:同名寺院青龍寺 (同名)・観音寺・護国寺_(同名))
歴史
隋の開皇2年(582)創建。文帝は大興城(のちの長安)を建設したとき、もともとあった墓地を改葬して郊外に移し、そこに寺を建てた。当初は霊感寺と言った。唐高祖の武徳4年(621)、廃絶となった。のち高宗の龍朔2年(662)、城陽公主が病気になり、法朗という僧が『観音経』を唱えたところ、完治した。そこで公主は寺とし、観音寺と称した。のち景雲2年(711)、青龍寺と改称した。
恵果が東塔院に入り、中国密教の中心的寺院となった。アジア各地から弟子が集まった。永貞元年(805)、空海がここで恵果から伝法を受けた。この他、円仁、円行、恵運、円珍、宗叡が青龍寺で密教を学んだ。会昌5年(845)の会昌の廃仏で廃絶となったが、翌年には護国寺として復興している。大中9年(855)7月、青龍寺と改称。この年、円珍が青龍寺浄土院の法全から受法した。これが史料に残る最後の記述で以後、いつまで存続したか不明という。
昭和47年(1972)9月、日本と中華人民共和国の国交が樹立。これを受け、日中の仏教界の交流が始まり、53年(1978)4月、中国仏教協会代表団が訪日。このとき真言宗各派総大本山会(各山会)は、日中友好真言宗協会を設立し、青龍寺復興を懇請したという。一方、1973年、中国では社会科学院考古研究所の馬得志氏の発掘調査で寺のあった新昌坊の位置が判明。さらに1980年の調査で詳細に報告された。これらを受け昭和59年(1984)の空海1150年遠忌を記念して恵果・空海記念堂が建立された。
日本の真言寺院でしばしば祀られる清瀧権現は元は青龍寺の鎮守という説がある