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天心霊社
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2021年6月30日 (水)
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- | '''天心霊社'''(てんしん | + | '''天心霊社'''(てんしん れいしゃ)は東京都台東区谷中にある[[岡倉天心]]および、歴代の日本美術院同人を祀る[[霊神信仰|霊社]]・[[祖霊社]]。日本美術院敷地内に鎮座している。 |
1914年(大正3年)9月2日(岡倉天心の一年祭)の日本美術院の再興にあわせて創建。午後3時平田大教正(平田盛胤?)を祭主として祭典を執行した。岡倉天心とともに橋本雅邦、狩野芳崖、菱田春草も合祀された。以後、歴代の同人が合祀されている。「同人」とは、日本美術院で会員の最上位である。同人の推挙式は、天心霊社にて行われているという。再興日本美術院の創設者である横山大観や下村観山らによって進められたが、斎藤隆三は自らの発案とのちの回顧録で語っている。一方、小杉放菴は天心霊社での推挙式を「神様ゴッコ」などと揶揄している。『小杉日記』1915年(大正4年)6月4日条に「午後は美術院に紫紅の天心霊社入りある筈なれど行かず。夜のいよ紋の会にのみ行く。美術院の天心社にも困ったものなり。今時誰一人岡倉[天心]を神明視するものあらんや。彼は畢竟、学者的事業家なるのみ。其人に豪傑的襟度はあり。美術家的崇拝の点のあるにあらず。合祀されたる[狩野]芳崖、[橋本]雅邦は要するに過渡期の凡大家のみ」とあり、1917年(大正6年)9月21日条に「二時半美術院に行き見る。新同人宣誓式とて例の如く天心霊社の神様ゴッコなり。しかも六人の新同人来れるは川端龍子一人のみ(下略)」とある。(『日本美術院百年史』第4巻、第7巻) | 1914年(大正3年)9月2日(岡倉天心の一年祭)の日本美術院の再興にあわせて創建。午後3時平田大教正(平田盛胤?)を祭主として祭典を執行した。岡倉天心とともに橋本雅邦、狩野芳崖、菱田春草も合祀された。以後、歴代の同人が合祀されている。「同人」とは、日本美術院で会員の最上位である。同人の推挙式は、天心霊社にて行われているという。再興日本美術院の創設者である横山大観や下村観山らによって進められたが、斎藤隆三は自らの発案とのちの回顧録で語っている。一方、小杉放菴は天心霊社での推挙式を「神様ゴッコ」などと揶揄している。『小杉日記』1915年(大正4年)6月4日条に「午後は美術院に紫紅の天心霊社入りある筈なれど行かず。夜のいよ紋の会にのみ行く。美術院の天心社にも困ったものなり。今時誰一人岡倉[天心]を神明視するものあらんや。彼は畢竟、学者的事業家なるのみ。其人に豪傑的襟度はあり。美術家的崇拝の点のあるにあらず。合祀されたる[狩野]芳崖、[橋本]雅邦は要するに過渡期の凡大家のみ」とあり、1917年(大正6年)9月21日条に「二時半美術院に行き見る。新同人宣誓式とて例の如く天心霊社の神様ゴッコなり。しかも六人の新同人来れるは川端龍子一人のみ(下略)」とある。(『日本美術院百年史』第4巻、第7巻) |
2021年6月30日 (水) 時点における最新版
天心霊社(てんしん れいしゃ)は東京都台東区谷中にある岡倉天心および、歴代の日本美術院同人を祀る霊社・祖霊社。日本美術院敷地内に鎮座している。
1914年(大正3年)9月2日(岡倉天心の一年祭)の日本美術院の再興にあわせて創建。午後3時平田大教正(平田盛胤?)を祭主として祭典を執行した。岡倉天心とともに橋本雅邦、狩野芳崖、菱田春草も合祀された。以後、歴代の同人が合祀されている。「同人」とは、日本美術院で会員の最上位である。同人の推挙式は、天心霊社にて行われているという。再興日本美術院の創設者である横山大観や下村観山らによって進められたが、斎藤隆三は自らの発案とのちの回顧録で語っている。一方、小杉放菴は天心霊社での推挙式を「神様ゴッコ」などと揶揄している。『小杉日記』1915年(大正4年)6月4日条に「午後は美術院に紫紅の天心霊社入りある筈なれど行かず。夜のいよ紋の会にのみ行く。美術院の天心社にも困ったものなり。今時誰一人岡倉[天心]を神明視するものあらんや。彼は畢竟、学者的事業家なるのみ。其人に豪傑的襟度はあり。美術家的崇拝の点のあるにあらず。合祀されたる[狩野]芳崖、[橋本]雅邦は要するに過渡期の凡大家のみ」とあり、1917年(大正6年)9月21日条に「二時半美術院に行き見る。新同人宣誓式とて例の如く天心霊社の神様ゴッコなり。しかも六人の新同人来れるは川端龍子一人のみ(下略)」とある。(『日本美術院百年史』第4巻、第7巻)