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休ケ岡八幡宮
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2023年5月5日 (金)
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'''休ケ岡八幡宮'''は、奈良県奈良市の[[薬師寺]]にある[[八幡信仰]]の神社。祭神は「誉田別命・息長足媛命・仲日売命」(国史大事典)。薬師寺鎮守。村社(国史大事典)。 | '''休ケ岡八幡宮'''は、奈良県奈良市の[[薬師寺]]にある[[八幡信仰]]の神社。祭神は「誉田別命・息長足媛命・仲日売命」(国史大事典)。薬師寺鎮守。村社(国史大事典)。 | ||
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+ | 寛平年間(889-898)、別当栄紹が[[宇佐八幡]]を勧請して創建。南大門の南側にあった花苑内に建てられ、現在の鎮座地も同じ位置とみられる。近年の研究によると、同時代創建の他の八幡宮や『薬師寺古記録抜粋』の記述から、宇多天皇の勅願を受け、栄紹が寛平8年(896)に創建したとみられている(近藤将人2014「薬師寺僧形八幡三神像の成立事情について」)。 | ||
+ | 創建前後に造立された神像は、神像美術の代表古例として著名。 | ||
==歴史== | ==歴史== | ||
- | + | 社殿は破損と再興を繰り返した。嘉暦2年(1327)、焼失。のち再建。天文8年(1539)、薬師寺諸堂が暴風で破損。八幡宮も修復されるが、慶長元年(1596)、地震で倒壊。慶長8年(1603)、豊臣秀頼の命で片桐且元が現在の社殿を再建した。この時、中門や楼門も建てられたが、宝永4年(1707)の地震で倒壊した。 | |
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+ | 八幡社八講、八幡社十講が行われていた。 | ||
+ | 明治の神仏分離で、薬師寺から独立して、村社となった。しかし現在は再び薬師寺の管理下にあり、独立した法人格は持たないようだ。 | ||
+ | ==社殿== | ||
+ | 本殿は慶長8年6月26日に再建されたもの。この時の棟札が現存するという。 | ||
+ | 本殿は西正面に建てられている。 | ||
+ | 左右の脇殿には十九所明神を祀っていた。境内に若宮社があったが、昭和23年、古図に基づき別地に遷座。座小屋という宮座の建物が残る。社地の近くに八幡院という薬師寺塔頭があり、八幡宮を管理していた寺院と思われる。 | ||
+ | 社地の北には孫太郎稲荷神社がある。 | ||
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+ | *国史大事典 | ||
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2023年5月5日 (金) 時点における最新版
休ケ岡八幡宮は、奈良県奈良市の薬師寺にある八幡信仰の神社。祭神は「誉田別命・息長足媛命・仲日売命」(国史大事典)。薬師寺鎮守。村社(国史大事典)。
目次 |
創建
寛平年間(889-898)、別当栄紹が宇佐八幡を勧請して創建。南大門の南側にあった花苑内に建てられ、現在の鎮座地も同じ位置とみられる。近年の研究によると、同時代創建の他の八幡宮や『薬師寺古記録抜粋』の記述から、宇多天皇の勅願を受け、栄紹が寛平8年(896)に創建したとみられている(近藤将人2014「薬師寺僧形八幡三神像の成立事情について」)。 創建前後に造立された神像は、神像美術の代表古例として著名。
歴史
社殿は破損と再興を繰り返した。嘉暦2年(1327)、焼失。のち再建。天文8年(1539)、薬師寺諸堂が暴風で破損。八幡宮も修復されるが、慶長元年(1596)、地震で倒壊。慶長8年(1603)、豊臣秀頼の命で片桐且元が現在の社殿を再建した。この時、中門や楼門も建てられたが、宝永4年(1707)の地震で倒壊した。
八幡社八講、八幡社十講が行われていた。
明治の神仏分離で、薬師寺から独立して、村社となった。しかし現在は再び薬師寺の管理下にあり、独立した法人格は持たないようだ。
社殿
本殿は慶長8年6月26日に再建されたもの。この時の棟札が現存するという。 本殿は西正面に建てられている。 左右の脇殿には十九所明神を祀っていた。境内に若宮社があったが、昭和23年、古図に基づき別地に遷座。座小屋という宮座の建物が残る。社地の近くに八幡院という薬師寺塔頭があり、八幡宮を管理していた寺院と思われる。 社地の北には孫太郎稲荷神社がある。
参考文献
- 国史大事典
- 日本歴史地名大系