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妙王院

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2026年2月24日 (火)

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'''妙王院'''(みょうおういん)は、常陸国茨城郡(茨城県水戸市)栗崎にあった[[修験道]][[本山派]]の寺院。本山派[[二十七先達]]の一つ。廃絶。明応院とも。通称は'''二階堂'''。(参考:同名寺院[[二階堂]])
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[[ファイル:水戸芳賀神社-02.jpg|thumb|500px|現在の芳賀神社]]
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'''妙王院'''(みょうおういん)は、常陸国茨城郡(茨城県水戸市)栗崎にあった[[修験道]][[本山派]]の寺院。本山派[[二十七先達]]の一つ。廃絶。跡地は芳賀神社周辺。明応院とも。通称は'''二階堂'''。(参考:同名寺院[[二階堂]])
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[[入四間権現]](御岩神社)の別当となり、御岩山には二階堂詰所があった。
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水戸藩領内には[[常陸・密蔵院]]もあり、支配を二分した。
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『踏雲録事』には「常陸二海道多門院」とある。『院家院室末寺修験頭分書上帳』には「茨城郡西木崎村二階堂」とある。
== 歴史 ==
== 歴史 ==
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創建不詳。佐竹氏一族の宥円(佐竹義和の子)という修験者が住職となり、修験寺院となる。貞享元年、[[徳川光圀]][[聖護院門跡]]に依頼して妙王院宥学を大先達にしたという。[[入四間権現]](御岩神社)の別当となった。廃絶。跡地に芳賀神社がある。(日本歴史地名大系ほか)
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*創建不詳。佐竹氏一族の宥円(戸村義和の子)という修験者が住職となり、修験寺院となる。
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*1663年:『開基帳』成立。「武州越生山本坊下住」「芳賀山薬王寺明応院」とある。[[越生山本坊]]の配下だったか。
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*1684年12月7日:[[徳川光圀]]の請願で、[[聖護院門跡]]が妙王院宥学を大先達に任命した。鎌倉将軍の先達を務めた鎌倉[[鎌倉・永福寺|二階堂永福寺]]に擬して「二階堂」と称す。配下に大先院、伍智院、八大坊の年行事3人を置き、新治郡全域、行方郡全域、那珂郡58村、下野国武茂組の山伏などの支配を命じられる(新編常陸国志)。延宝3年6月20日に大先達になったとも[https://dl.ndl.go.jp/pid/13269351/1/5]
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*1697年12月:芳賀神社社殿改築で二階堂大先達が奉仕[https://dl.ndl.go.jp/pid/12266294/1/372]
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*1766年:芳賀神社、現在地に遷座か[https://dl.ndl.go.jp/pid/12266294/1/372]
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*1869年8月17日:水戸藩、[[神祇官]]に二階堂の還俗を報告した上で相当の官位を授けるように請願したが、却下される[https://dl.ndl.go.jp/pid/3035379/1/453?page=right]
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==資料==
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*『開基帳』「山伏」
*『開基帳』「山伏」
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*「二階堂文書」:水府志料付録
*「二階堂文書」:水府志料付録
*『東茨城郡誌』「二階堂大先達」[https://dl.ndl.go.jp/pid/13196903/1/924]
*『東茨城郡誌』「二階堂大先達」[https://dl.ndl.go.jp/pid/13196903/1/924]
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*『常澄村史 地誌編』
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*『常澄村史 地誌編』[https://dl.ndl.go.jp/pid/13236904/1/85]
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*「水戸藩神祇官願書」:『旧水戸藩履歴』[https://dl.ndl.go.jp/pid/3035379/1/453]
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*「徳川光圀書簡」4通:水戸義公全集[https://dl.ndl.go.jp/pid/12407554/1/84]
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*「水戸修験帳」:文化2年。未刊か。彰考館
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*『茨城県神社誌』「芳賀神社」[https://dl.ndl.go.jp/pid/12266294/1/371]
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*『佐竹秋田に遷さる』[https://dl.ndl.go.jp/pid/9640541/1/272]
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*『市史余談百話集』「今宮大納言坊」[https://dl.ndl.go.jp/pid/13197012/1/27]
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*「栗崎明應院二階堂大先進(戸村氏)及その関連事項」
[[category:茨城県]]
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2026年2月24日 (火) 時点における最新版

現在の芳賀神社

妙王院(みょうおういん)は、常陸国茨城郡(茨城県水戸市)栗崎にあった修験道本山派の寺院。本山派二十七先達の一つ。廃絶。跡地は芳賀神社周辺。明応院とも。通称は二階堂。(参考:同名寺院二階堂

入四間権現(御岩神社)の別当となり、御岩山には二階堂詰所があった。 水戸藩領内には常陸・密蔵院もあり、支配を二分した。

『踏雲録事』には「常陸二海道多門院」とある。『院家院室末寺修験頭分書上帳』には「茨城郡西木崎村二階堂」とある。

歴史

  • 創建不詳。佐竹氏一族の宥円(戸村義和の子)という修験者が住職となり、修験寺院となる。
  • 1663年:『開基帳』成立。「武州越生山本坊下住」「芳賀山薬王寺明応院」とある。越生山本坊の配下だったか。
  • 1684年12月7日:徳川光圀の請願で、聖護院門跡が妙王院宥学を大先達に任命した。鎌倉将軍の先達を務めた鎌倉二階堂永福寺に擬して「二階堂」と称す。配下に大先院、伍智院、八大坊の年行事3人を置き、新治郡全域、行方郡全域、那珂郡58村、下野国武茂組の山伏などの支配を命じられる(新編常陸国志)。延宝3年6月20日に大先達になったとも[1]
  • 1697年12月:芳賀神社社殿改築で二階堂大先達が奉仕[2]
  • 1766年:芳賀神社、現在地に遷座か[3]
  • 1869年8月17日:水戸藩、神祇官に二階堂の還俗を報告した上で相当の官位を授けるように請願したが、却下される[4]

画像

資料

  • 『開基帳』「山伏」
  • 『水城金鑑』
  • 『新編常陸国志』[5]
  • 「戸村氏譜」
  • 「二階堂文書」:水府志料付録
  • 『東茨城郡誌』「二階堂大先達」[6]
  • 『常澄村史 地誌編』[7]
  • 「水戸藩神祇官願書」:『旧水戸藩履歴』[8]
  • 「徳川光圀書簡」4通:水戸義公全集[9]
  • 「水戸修験帳」:文化2年。未刊か。彰考館
  • 『茨城県神社誌』「芳賀神社」[10]
  • 『佐竹秋田に遷さる』[11]
  • 『市史余談百話集』「今宮大納言坊」[12]
  • 「栗崎明應院二階堂大先進(戸村氏)及その関連事項」
http://shinden.boo.jp/wiki/%E5%A6%99%E7%8E%8B%E9%99%A2」より作成

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