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川原寺
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
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天武2年(673)、日本初の大蔵経写経が行われた。 | 天武2年(673)、日本初の大蔵経写経が行われた。 | ||
+ | 金堂、三重塔、食堂、僧房、東南院、西南院などがあった。 | ||
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- | [[聖宝]]は十一面観音像を造立している。 | + | 空海門下の真然が弘福寺検校となり真言宗寺院となっていく。寛平6年に検校になった[[聖宝]]は十一面観音像を造立している。 |
鎌倉時代には教弁が食堂、僧房を再建。室町時代末期に雷火で大打撃を受け、衰退した。 | 鎌倉時代には教弁が食堂、僧房を再建。室町時代末期に雷火で大打撃を受け、衰退した。 |
2017年9月11日 (月) 時点における版
川原寺(かわらでら)は、天智天皇が川原宮跡に創建した古代寺院。現在の大和・弘福寺。飛鳥・藤原京時代の官寺四大寺の一つ。弘福寺とも呼ばれた。
歴史
敏達13年、蘇我馬子が創建した(諸寺縁起集)とも斉明元年10月、飛鳥川原宮を寺院とした(元亨釈書、扶桑略記)ともいう。古瓦から白鳳時代の造営とみられる。 天武2年(673)、日本初の大蔵経写経が行われた。 金堂、三重塔、食堂、僧房、東南院、西南院などがあった。
天長9年(832)11月、嵯峨天皇が空海に川原寺に下賜し(水鏡)、東南院に住したといい、東寺末となったという。 空海門下の真然が弘福寺検校となり真言宗寺院となっていく。寛平6年に検校になった聖宝は十一面観音像を造立している。
鎌倉時代には教弁が食堂、僧房を再建。室町時代末期に雷火で大打撃を受け、衰退した。 昭和32年から翌年の調査で伽藍跡の全容が判明した。
(日本歴史地名大系、国史大辞典)