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池田家和意谷墓地
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2020年5月4日 (月)
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池田光政が1682年(天和2年)に死去すると小原大丈軒が祝を務めた。 | 池田光政が1682年(天和2年)に死去すると小原大丈軒が祝を務めた。 | ||
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僧侶は関与せず、墓碑に法号は刻まれなかった。 | 僧侶は関与せず、墓碑に法号は刻まれなかった。 | ||
2020年5月4日 (月) 時点における最新版
和意谷墓地(わいだに・ぼち)は岡山県備前市吉永町都留岐にある池田家の儒葬墓地。池田家歴代当主の墓地としてはもう一つ池田家正覚谷墓地がある。敦土山墓地。和意谷御墓。
歴史
仏教批判を主張した熊沢蕃山の建言により築かれた。池田光政は1665年(寛文5年)2月、墓地の開設を発意。津田永忠に適地を探索させ、10月に和意谷と定めた。『稽古定制』に沿った墓制と祭祀の導入を図った。 1666年(寛文6年)、墓地の改葬を池田家家廟に奉告。家臣を京都に派遣し、妙心寺護国院に埋葬されていた池田輝政と池田利隆の遺骨を迎え、12月に岡山に到着。1667年(寛文7年)閏2月に和意谷に埋葬された。この時、土地の神を祀る「地祭」が行われ、祝(斎主?)を熊沢正興、執事(典儀?)を中江常省が務めた。墓に対する祭典では泉泉窩が祝を務めた。続いて4月から整備が始められ、碑石、墓誌、門柱、石垣、敷石を敷設。同年には池田利政、池田政虎、池田政貞の遺骨も妙心寺護国院から改葬。1669年(寛文9年)に竣工した。また池田輝興の墓所も造営された。 1670年(寛文10年)、三宅鞏革斎と三宅衡雪に碑の選文を依頼。 池田光政が1682年(天和2年)に死去すると小原大丈軒が祝を務めた。
同じ儒教式墓地の水戸徳川家の瑞龍山墓地が『家礼』に則っているのに対して明代洪武年間の『稽古定制』に沿って築かれた。 僧侶は関与せず、墓碑に法号は刻まれなかった。
墓参は毎年3月に行われ、彼岸や盆の墓参はなかった。
一覧
- 一のお山:池田輝政。亀跌が使われている。『稽古定制』によれば亀跌・天禄辟邪を使用するのは三品以上のみで、輝政は正三位だった。
- 二のお山:池田利隆
- 三のお山:池田光政
- 四のお山:元は「三のお山」。池田輝興
- 五のお山:元は「四のお山」。池田政貞、池田利政、池田政虎
- 六のお山:
- 七のお山:
和気郡誌[1]
- 池田政貞:千引巌根政貞命
- 池田政実:池田慶政長男。忝若入雄政実命。1869年(明治2年)8月7日死去。20歳。
文献
- 吾妻重二2015「池田光政と儒教喪祭儀礼」[2]