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照高院
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2024年1月16日 (火)
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- | '''照高院''' | + | '''照高院'''(しょうこういん)は、京都府京都市左京区外山町にあった、[[豊臣秀吉]]ゆかりの[[天台宗]]の[[門跡寺院]]。[[天台宗寺門派]]。[[聖護院門跡]]の兼務。[[京都・方広寺|方広寺]]の別当坊。当初は現在の[[妙法院門跡]]の場所にあった。廃絶。'''白川御殿'''、'''雪輪御所'''とも呼ばれた。 |
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- | 1770年(明和7年) | + | *1595年(文禄4年)頃:豊臣秀吉創建の大仏方広寺別当に任じられた聖護院道澄が方広寺における自坊として設けた。1595年(文禄4年)の創建だと推定されている。 |
+ | *1615年(元和1年):2代興意法親王のとき、大阪城落城の直後に大仏殿住職を解任され、妙法院にその管理は遷された。寺地と伽藍は没収され、興意法親王は、六角堂[[頂法寺]]に寓居したという。 | ||
+ | *1620年(元和6年):北白川に土地を与えられ、再建された。客殿、書院、御所之間、護摩堂があった。護摩堂が唯一の仏堂であったらしい。書院は、[[聚楽第]]あるいは[[伏見城]]から移築されたものであるという説があるが、聚楽第からの移築説は年代的に疑わしいという(以上、川上貢1960による)。再建時に1000石を与えられた。 | ||
+ | *1770年(明和7年):聖護院門跡の兼帯とされて、以後、無住となった。 | ||
+ | *1868年(明治1年):明治維新に際し、聖護院門跡附弟であった信仁入道親王が照高院に住し、還俗して「照高院宮智成親王」と称した。まもなく智成親王は聖護院宮を継承した。 | ||
+ | *1870年(明治3年):「聖護院宮」から「北白川宮」に改称。 | ||
+ | *1872年(明治5年):智成親王は死去し、実兄であり、もと[[輪王寺宮]]であった能久親王が継承した。 | ||
+ | *1875年(明治8年)夏:東京移住により、堂宇は撤去された(巌本範治1902)。 | ||
+ | *1909年(明治42年):跡地から北西550mの地に石碑が建てられた。 | ||
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+ | *川上貢1960「白川照高院について」 | ||
+ | *巌本範治1902「照高院宮址」碑文(1909年(明治42年)建立) | ||
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2024年1月16日 (火) 時点における最新版
照高院(しょうこういん)は、京都府京都市左京区外山町にあった、豊臣秀吉ゆかりの天台宗の門跡寺院。天台宗寺門派。聖護院門跡の兼務。方広寺の別当坊。当初は現在の妙法院門跡の場所にあった。廃絶。白川御殿、雪輪御所とも呼ばれた。
- 1595年(文禄4年)頃:豊臣秀吉創建の大仏方広寺別当に任じられた聖護院道澄が方広寺における自坊として設けた。1595年(文禄4年)の創建だと推定されている。
- 1615年(元和1年):2代興意法親王のとき、大阪城落城の直後に大仏殿住職を解任され、妙法院にその管理は遷された。寺地と伽藍は没収され、興意法親王は、六角堂頂法寺に寓居したという。
- 1620年(元和6年):北白川に土地を与えられ、再建された。客殿、書院、御所之間、護摩堂があった。護摩堂が唯一の仏堂であったらしい。書院は、聚楽第あるいは伏見城から移築されたものであるという説があるが、聚楽第からの移築説は年代的に疑わしいという(以上、川上貢1960による)。再建時に1000石を与えられた。
- 1770年(明和7年):聖護院門跡の兼帯とされて、以後、無住となった。
- 1868年(明治1年):明治維新に際し、聖護院門跡附弟であった信仁入道親王が照高院に住し、還俗して「照高院宮智成親王」と称した。まもなく智成親王は聖護院宮を継承した。
- 1870年(明治3年):「聖護院宮」から「北白川宮」に改称。
- 1872年(明治5年):智成親王は死去し、実兄であり、もと輪王寺宮であった能久親王が継承した。
- 1875年(明治8年)夏:東京移住により、堂宇は撤去された(巌本範治1902)。
- 1909年(明治42年):跡地から北西550mの地に石碑が建てられた。
歴代住職
照高院宮を参照。
画像
資料
- 「諸門跡伝―円満院・聖護院・実相院・照高院」『華頂要略』143[1]
- 川上貢1960「白川照高院について」
- 巌本範治1902「照高院宮址」碑文(1909年(明治42年)建立)