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専修寺智恵光院
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2023年6月4日 (日)
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- | *8真淳(1736-1807)<1758->:真証の長男。1736年(元文1年)生。1747年(延享4年)得度。京都で学ぶ。1758年(宝暦8年)智恵光院住職。1762年(宝暦12年)から専修寺で講義。1796年(寛政8年)2月29日専修寺学頭。1797年(寛政9年) | + | *8真淳(1736-1807)<1758->:真証の長男。1736年(元文1年)生。1747年(延享4年)得度。京都で学ぶ。1758年(宝暦8年)智恵光院住職。1762年(宝暦12年)から専修寺で講義。1796年(寛政8年)2月29日専修寺学頭。1797年(寛政9年)3月10日、権僧正。『日本仏家人名辞書』に「妙法院宮の令旨を蒙り、その支院光明王院の兼住となる」とあり、[[天台宗]][[妙法院門跡]]の准院室[[光明王院]]を兼帯したようだ。妻帯せず。1807年(文化4年)5月29日死去。金光明院と号す。著書多数。 |
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2023年6月4日 (日) 時点における最新版
専修寺智恵光院は、三重県津市にある浄土真宗寺院。真宗高田派。専修寺の子院。玉保院・慈智院と共に三ケ院の一つ。西院。宝寿院、智光院とも。8世真淳が学僧として活躍し学頭とされ連枝格となる。
1465年(寛正6年)龍珠軒真祐が真慧に随従して伊勢に来て創建。 円猷から智恵光院の号を授かったという。
組織
歴代住職
声明智恵光院流の歴代が歴代住職だと思われる[1]。
- 1真祐(?-1569)<>:1569年(永禄12年)11月24日死去[2][3]。龍珠軒と号す。
- 2真教()<>:
- 3真唱()<>:
- 4真常()<>:
- 5真純()<>:
- 6真〓()<>:(〓は「王頁」)
- 7真証(1707-1762)<>:1707年(宝永4年)生。公報ともいう。西園寺致季の猶子。如来堂造営の中心的な役割を果たした。専修寺18世円遵の師範となる。法印権大僧都。1762年(宝暦12年)9月14日死去。56歳。一仏乗院と号す。
- 8真淳(1736-1807)<1758->:真証の長男。1736年(元文1年)生。1747年(延享4年)得度。京都で学ぶ。1758年(宝暦8年)智恵光院住職。1762年(宝暦12年)から専修寺で講義。1796年(寛政8年)2月29日専修寺学頭。1797年(寛政9年)3月10日、権僧正。『日本仏家人名辞書』に「妙法院宮の令旨を蒙り、その支院光明王院の兼住となる」とあり、天台宗妙法院門跡の准院室光明王院を兼帯したようだ。妻帯せず。1807年(文化4年)5月29日死去。金光明院と号す。著書多数。
- 9真妙()<>:
- 10真満()<>:
- 11円崇(1819-1883)<>:円禎の弟。1819年(文政2年)生。幼名は棟若。1832年(天保3年)得度。無量幢院と号す。1883年(明治16年)2月20日死去。65歳。[4]
- 12真巍()<>:
- 13真〓()<>:(〓は「山龍」)
- 14真梁()<>:
資料
- 『智恵光院法脈相承記』