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観心寺
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2023年12月11日 (月)
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- | '''観心寺''' | + | '''観心寺'''(かんしんじ)は、大阪府河内長野市にある、[[真言宗]]寺院。[[定額寺]]。[[南朝]]にゆかり深く、[[後村上天皇]]の行在所となった。[[後村上天皇陵]]がある。本尊は[[如意輪観音]]。[[楠木正成旧跡]]。高野山真言宗。 |
+ | 京都の[[禅林寺]]と深い関係を持った。 | ||
+ | ==歴史== | ||
+ | *701年(大宝1年):役小角が創建し雲心寺と称した。 | ||
+ | *808年(大同3年):空海が訪れて北斗七星を勧請。 | ||
+ | *815年(弘仁6年):如意輪観音を刻んで観心寺と称した。 | ||
+ | *827年(天長4年):実恵の命で弟子の真紹が伽藍を造営した。 | ||
+ | *843年:河内国守をもって観心寺俗別当とすることを定める | ||
+ | *869年(貞観11年):定額寺に列格 | ||
+ | *883年(元慶7年)9月15日:『観心寺縁起資財帳』編纂。 | ||
+ | *1333年:後醍醐天皇、「観心寺地頭職」を観心寺に寄進 | ||
+ | *1334年:楠木正成が奉行となり金堂の外陣を再建。さらに三重塔を建てようとしたが果たせず「建掛塔」として残された | ||
+ | *1336年:楠木正成戦死。首塚が築かれた。 | ||
+ | *1340年:後村上天皇、河内国小高瀬庄領家職を寄進 | ||
+ | *1344年:訶梨帝母天堂が焼失。同年再建。 | ||
+ | *1356年6月1日:実恵に大僧正を贈られるように奏上。 | ||
+ | *1357年5月:後村上天皇、行幸 | ||
+ | *1357年6月7日:後村上天皇、実恵に僧正を追贈 | ||
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+ | *1359年12月23日:後村上天皇、天野山より移って観心寺総持院が行宮となる | ||
+ | *1360年1月13日:後村上天皇、東寺仏舎利を観心寺に奉納 | ||
+ | *1360年5月8日:後村上天皇、金剛山麓の観音寺に移る | ||
+ | *1368年3月11日:後村上天皇、崩御。遺詔により境内に埋葬 | ||
+ | *1378年:賢耀という僧侶が参拝し、『観心寺参詣諸堂巡礼記』を記す | ||
+ | *1396年:観心寺集会評定事書。集会制度の初見 | ||
+ | *1409年:管領畠山満家が寺領寄進 | ||
+ | *1439年頃:現在の金堂、再建 | ||
+ | *1505年:「山伏道」は禁止されているが下僧の中に「公方の権威」を背景に入峰しようとしたものがいたという。実際にはさかんに行われていたのだろう。 | ||
+ | *豊臣秀吉、寺領を寄進 | ||
+ | *豊臣秀頼、伽藍再建 | ||
+ | *1669年頃:観心寺伽藍寺役僧坊法式控、成立 | ||
+ | *天保年間:有栖川宮家の祈願所となる。 | ||
- | < | + | == 伽藍 == |
+ | *金堂: | ||
+ | *講堂:恩賜講堂。昭和大礼で使われた建物を移築した。 | ||
+ | *建掛塔:楠木正成が三重塔を立てようとして途中で終わったと伝える。 | ||
+ | *大師御影堂: | ||
+ | *実恵御影堂:開山堂 | ||
+ | *阿弥陀堂: | ||
+ | *訶梨帝母天堂: | ||
+ | *西宮: | ||
+ | *東宮: | ||
+ | *弁天堂: | ||
+ | *役行者堂:本尊は[[役小角]]。 | ||
+ | *灌頂院: | ||
+ | *[[後村上天皇陵]]:元は法華堂があったか。 | ||
+ | *新待賢門院墓:[[コウボ坂陵墓参考地]] | ||
+ | *[[楠木正成首塚]]: | ||
+ | *[[楠木正行首塚]]: | ||
+ | *空海礼拝石: | ||
+ | *星塚:空海が勧請した北斗七星を祀る。七つある。 | ||
+ | *[[檜尾塚陵墓参考地]] | ||
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+ | == 子院 == | ||
+ | *総持院:後村上天皇行在所。廃絶。跡地に石碑が建つ。 | ||
+ | *中院:楠木氏の菩提寺。現存。楠木正成が幼少の時ここで学んだという。 | ||
+ | *槙本院:現存。本坊。 | ||
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+ | == 組織 == | ||
+ | ===住職=== | ||
+ | *「石山寺座主并禅林・観心両寺座主相承次第」[http://hyakugo.kyoto.jp/contents/detail.php?id=29467] | ||
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2023年12月11日 (月) 時点における最新版
観心寺(かんしんじ)は、大阪府河内長野市にある、真言宗寺院。定額寺。南朝にゆかり深く、後村上天皇の行在所となった。後村上天皇陵がある。本尊は如意輪観音。楠木正成旧跡。高野山真言宗。 京都の禅林寺と深い関係を持った。
目次 |
歴史
- 701年(大宝1年):役小角が創建し雲心寺と称した。
- 808年(大同3年):空海が訪れて北斗七星を勧請。
- 815年(弘仁6年):如意輪観音を刻んで観心寺と称した。
- 827年(天長4年):実恵の命で弟子の真紹が伽藍を造営した。
- 843年:河内国守をもって観心寺俗別当とすることを定める
- 869年(貞観11年):定額寺に列格
- 883年(元慶7年)9月15日:『観心寺縁起資財帳』編纂。
- 1333年:後醍醐天皇、「観心寺地頭職」を観心寺に寄進
- 1334年:楠木正成が奉行となり金堂の外陣を再建。さらに三重塔を建てようとしたが果たせず「建掛塔」として残された
- 1336年:楠木正成戦死。首塚が築かれた。
- 1340年:後村上天皇、河内国小高瀬庄領家職を寄進
- 1344年:訶梨帝母天堂が焼失。同年再建。
- 1356年6月1日:実恵に大僧正を贈られるように奏上。
- 1357年5月:後村上天皇、行幸
- 1357年6月7日:後村上天皇、実恵に僧正を追贈
- 1359年12月23日:後村上天皇、天野山より移って観心寺総持院が行宮となる
- 1360年1月13日:後村上天皇、東寺仏舎利を観心寺に奉納
- 1360年5月8日:後村上天皇、金剛山麓の観音寺に移る
- 1368年3月11日:後村上天皇、崩御。遺詔により境内に埋葬
- 1378年:賢耀という僧侶が参拝し、『観心寺参詣諸堂巡礼記』を記す
- 1396年:観心寺集会評定事書。集会制度の初見
- 1409年:管領畠山満家が寺領寄進
- 1439年頃:現在の金堂、再建
- 1505年:「山伏道」は禁止されているが下僧の中に「公方の権威」を背景に入峰しようとしたものがいたという。実際にはさかんに行われていたのだろう。
- 豊臣秀吉、寺領を寄進
- 豊臣秀頼、伽藍再建
- 1669年頃:観心寺伽藍寺役僧坊法式控、成立
- 天保年間:有栖川宮家の祈願所となる。
伽藍
- 金堂:
- 講堂:恩賜講堂。昭和大礼で使われた建物を移築した。
- 建掛塔:楠木正成が三重塔を立てようとして途中で終わったと伝える。
- 大師御影堂:
- 実恵御影堂:開山堂
- 阿弥陀堂:
- 訶梨帝母天堂:
- 西宮:
- 東宮:
- 弁天堂:
- 役行者堂:本尊は役小角。
- 灌頂院:
- 後村上天皇陵:元は法華堂があったか。
- 新待賢門院墓:コウボ坂陵墓参考地
- 楠木正成首塚:
- 楠木正行首塚:
- 空海礼拝石:
- 星塚:空海が勧請した北斗七星を祀る。七つある。
- 檜尾塚陵墓参考地
子院
- 総持院:後村上天皇行在所。廃絶。跡地に石碑が建つ。
- 中院:楠木氏の菩提寺。現存。楠木正成が幼少の時ここで学んだという。
- 槙本院:現存。本坊。
組織
住職
- 「石山寺座主并禅林・観心両寺座主相承次第」[1]