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龍翔寺
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2023年1月7日 (土)
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'''龍翔寺'''は、京都府京都市北区の[[大徳寺]]山内にある、現在の[[臨済宗]]各派につながる[[応灯関派]]の開祖[[南浦紹明]]の塔所。大徳寺塔頭。[[後宇多天皇]]の菩提寺。[[十刹]]10位。'''臨済宗大徳寺派専門道場'''('''大徳僧堂''')が置かれている。旧地には皇室治定の[[後宇多天皇髪塔]]と[[礼子内親王墓]]がある。 | '''龍翔寺'''は、京都府京都市北区の[[大徳寺]]山内にある、現在の[[臨済宗]]各派につながる[[応灯関派]]の開祖[[南浦紹明]]の塔所。大徳寺塔頭。[[後宇多天皇]]の菩提寺。[[十刹]]10位。'''臨済宗大徳寺派専門道場'''('''大徳僧堂''')が置かれている。旧地には皇室治定の[[後宇多天皇髪塔]]と[[礼子内親王墓]]がある。 | ||
== 歴史 == | == 歴史 == | ||
- | + | [[file:sdre-583.JPG|龍翔寺跡地にある後宇多天皇髪塔・背後から|thumb|400px]] | |
+ | 元は太秦安井(京都府京都市右京区太秦安井池田町)にあった。1309年(延慶2年)、後宇多法皇が離宮'''柳殿御所'''を寄進し、帰依した南浦紹明の塔所として創建した。のち後宇多天皇の遺髪塔が建てられた。『祥雲夜話』で知られる祥雲庵もあった。最後の[[賀茂斎院]]であった嘉陽門院礼子内親王の墓が残されており、賀茂斎院の跡地という説もある。 | ||
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+ | 室町時代以降、衰退し、[[一休宗純]]が援助するなどしている。1527年(大永7年)には戦乱で焼失した。そこで大徳寺の天啓宗インが1539年(天文8年)が寺内に土地を確保し移転。ただ南浦紹明の墓(現存不詳)、後宇多天皇塔は旧地に残された。 | ||
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+ | 明治初年の改革で、合併廃止となり、跡地には[[三玄院]]が移ってきて伽藍を継承する。1925年(大正14年)、天瑞寺跡地に再興され、1927年(昭和2年)に大徳寺派専門道場が設置された。(京都風光[http://www.kyotofukoh.jp/report1444.html]、本朝寺塔記[http://www.kagemarukun.fromc.jp/page025.html]) | ||
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+ | ===大徳僧堂歴代師家=== | ||
+ | *儀山善来(1802-1878)<1872->:1872年(明治5年)僧堂開単。 | ||
+ | *菅広州(1840-1907)<1892-1895>:1892年(明治25年)7月から1895年(明治28年)まで管長兼僧堂師家。 | ||
+ | *円山要宗(1871-1940)<1919-1933>:大徳寺派管長6代。大徳寺488世。1919年(大正8年)大徳僧堂師家。1924年(大正13年)4月6日開堂し、大徳寺派管長。1925年(大正14年)龍翔寺を再興。1927年(昭和2年)、大徳僧堂を聚光院から龍翔寺に移転させた。1933年(昭和8年)、師家・管長を辞任して山科指月林に隠棲。 | ||
+ | *松岡寛慶(1876-1934)<1933-1934>:大徳寺派管長7代。大徳寺495世。1933年(昭和8年)から1934年(昭和9年)まで大徳僧堂師家。 | ||
+ | *太田晦巌(1877-1946)<1935-1946>:円覚寺派管長7代。大徳寺派管長8代。大徳寺489世。1935年(昭和10年)7月から1946年(昭和21年)まで大徳僧堂師家。 | ||
+ | *後藤瑞巌(1879-1965)<1947-1950>:妙心寺派管長20代。大徳寺派管長9代。1947年(昭和22年)大徳僧堂師家・大徳寺派管長。高齢のため小田雪窓が師家代参を務める。 | ||
+ | *小田雪窓(1901-1966)<1950-1966>:大徳寺派管長11代。1950年(昭和25年)9月30日から1966年(昭和41年)まで大徳僧堂師家。 | ||
+ | *中村祖順(1922-1983)<1967-1983>:大徳寺派管長13代。1967年(昭和42年)10月、大徳僧堂師家。 | ||
+ | *高田明浦(1943-)<1984->:大徳寺派管長15代。1984年(昭和59年)7月、龍翔寺住職・大徳僧堂師家。 | ||
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2023年1月7日 (土) 時点における最新版
龍翔寺は、京都府京都市北区の大徳寺山内にある、現在の臨済宗各派につながる応灯関派の開祖南浦紹明の塔所。大徳寺塔頭。後宇多天皇の菩提寺。十刹10位。臨済宗大徳寺派専門道場(大徳僧堂)が置かれている。旧地には皇室治定の後宇多天皇髪塔と礼子内親王墓がある。
歴史
元は太秦安井(京都府京都市右京区太秦安井池田町)にあった。1309年(延慶2年)、後宇多法皇が離宮柳殿御所を寄進し、帰依した南浦紹明の塔所として創建した。のち後宇多天皇の遺髪塔が建てられた。『祥雲夜話』で知られる祥雲庵もあった。最後の賀茂斎院であった嘉陽門院礼子内親王の墓が残されており、賀茂斎院の跡地という説もある。
室町時代以降、衰退し、一休宗純が援助するなどしている。1527年(大永7年)には戦乱で焼失した。そこで大徳寺の天啓宗インが1539年(天文8年)が寺内に土地を確保し移転。ただ南浦紹明の墓(現存不詳)、後宇多天皇塔は旧地に残された。
明治初年の改革で、合併廃止となり、跡地には三玄院が移ってきて伽藍を継承する。1925年(大正14年)、天瑞寺跡地に再興され、1927年(昭和2年)に大徳寺派専門道場が設置された。(京都風光[1]、本朝寺塔記[2])
組織
大徳僧堂歴代師家
- 儀山善来(1802-1878)<1872->:1872年(明治5年)僧堂開単。
- 菅広州(1840-1907)<1892-1895>:1892年(明治25年)7月から1895年(明治28年)まで管長兼僧堂師家。
- 円山要宗(1871-1940)<1919-1933>:大徳寺派管長6代。大徳寺488世。1919年(大正8年)大徳僧堂師家。1924年(大正13年)4月6日開堂し、大徳寺派管長。1925年(大正14年)龍翔寺を再興。1927年(昭和2年)、大徳僧堂を聚光院から龍翔寺に移転させた。1933年(昭和8年)、師家・管長を辞任して山科指月林に隠棲。
- 松岡寛慶(1876-1934)<1933-1934>:大徳寺派管長7代。大徳寺495世。1933年(昭和8年)から1934年(昭和9年)まで大徳僧堂師家。
- 太田晦巌(1877-1946)<1935-1946>:円覚寺派管長7代。大徳寺派管長8代。大徳寺489世。1935年(昭和10年)7月から1946年(昭和21年)まで大徳僧堂師家。
- 後藤瑞巌(1879-1965)<1947-1950>:妙心寺派管長20代。大徳寺派管長9代。1947年(昭和22年)大徳僧堂師家・大徳寺派管長。高齢のため小田雪窓が師家代参を務める。
- 小田雪窓(1901-1966)<1950-1966>:大徳寺派管長11代。1950年(昭和25年)9月30日から1966年(昭和41年)まで大徳僧堂師家。
- 中村祖順(1922-1983)<1967-1983>:大徳寺派管長13代。1967年(昭和42年)10月、大徳僧堂師家。
- 高田明浦(1943-)<1984->:大徳寺派管長15代。1984年(昭和59年)7月、龍翔寺住職・大徳僧堂師家。