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神光霊社
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2019年7月2日 (火)
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- | '''神光霊社'''は京都吉田の[[吉田・神光院|神光院]] | + | '''神光霊社'''は京都吉田の[[吉田・神光院|神光院]]にあった[[卜部氏]]中興の吉田兼熙(1348-1402)の[[霊社]]。廃絶か。 |
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- | + | 兼熙(兼凞)は[[吉田家]]6代とされ、神光院、神光霊神、神光明神と呼ばれる。歴代当主で明神号を持つのは「神龍大明神」の[[吉田兼倶]](1435-1511)の他は兼煕だけである。これは将軍[[足利義満]]の信任厚く父祖を超えて初めて従三位となり公卿となったことや、初めて家名を「吉田」としたことなどの事績によるものと思われる。兼倶以前に吉田家で霊社創建の例はないので、兼倶の時代以降の鎮座と考えられている。江戸時代の1779年『神業類要』の時点では存続しており、霊社の下に遺骸を収めると伝えられていたが、葬儀の経緯を詳細に記す『吉田家日次記』によると、火葬され蓮台野に埋葬されており、不確実とされる。霊社の、その後の消息は不詳。(『神葬祭大辞典』) | |
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2019年7月2日 (火) 時点における最新版
神光霊社は京都吉田の神光院にあった卜部氏中興の吉田兼熙(1348-1402)の霊社。廃絶か。
兼熙(兼凞)は吉田家6代とされ、神光院、神光霊神、神光明神と呼ばれる。歴代当主で明神号を持つのは「神龍大明神」の吉田兼倶(1435-1511)の他は兼煕だけである。これは将軍足利義満の信任厚く父祖を超えて初めて従三位となり公卿となったことや、初めて家名を「吉田」としたことなどの事績によるものと思われる。兼倶以前に吉田家で霊社創建の例はないので、兼倶の時代以降の鎮座と考えられている。江戸時代の1779年『神業類要』の時点では存続しており、霊社の下に遺骸を収めると伝えられていたが、葬儀の経緯を詳細に記す『吉田家日次記』によると、火葬され蓮台野に埋葬されており、不確実とされる。霊社の、その後の消息は不詳。(『神葬祭大辞典』)