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北畠顕家墓
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2023年3月13日 (月)
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江戸時代、『摂津誌』を編纂した並河誠所が『太平記』の記述から当地の'''大名塚'''を顕家の墓と断定し、墓碑を建立した。 | 江戸時代、『摂津誌』を編纂した並河誠所が『太平記』の記述から当地の'''大名塚'''を顕家の墓と断定し、墓碑を建立した。 | ||
墓碑には「別当鎮守府大将軍従二位行中納言兼右衛門督陸奥権守源朝臣顕家卿之墓」とある。「大」の字は追刻。 | 墓碑には「別当鎮守府大将軍従二位行中納言兼右衛門督陸奥権守源朝臣顕家卿之墓」とある。「大」の字は追刻。 | ||
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西1kmに顕家を祀る[[阿部野神社]]が1887年に創建された。 | 西1kmに顕家を祀る[[阿部野神社]]が1887年に創建された。 | ||
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2023年3月13日 (月) 時点における最新版
大阪府大阪市阿倍野区王子町にある、南朝忠臣の北畠顕家(1318-1338)の墓とされる塚。
歴史
北畠顕家は北畠親房の長男。1338年5月22日、21歳で敗死。『太平記』によると、その場所は「和泉ノ堺安部野」という。戦死場所については和泉石津とする説もあり、そちらにも墓碑がある。 江戸時代、『摂津誌』を編纂した並河誠所が『太平記』の記述から当地の大名塚を顕家の墓と断定し、墓碑を建立した。 墓碑には「別当鎮守府大将軍従二位行中納言兼右衛門督陸奥権守源朝臣顕家卿之墓」とある。「大」の字は追刻。
1919年12月「北畠顕家卿墓」碑、建立。1928年7月、「北畠卿顕章会」を設立。 1940年までに墓域を拡張し整備し、大阪市に寄付した。 大阪市も顕彰史跡に指定し、整備に関わり、1939年11月に北畠公園とした。 公園内に顕家会館があり、北畠顕家の像がある。
西1kmに顕家を祀る阿部野神社が1887年に創建された。