ようこそ『神殿大観』へ。ただいま試験運用中です。 |
今熊野・観音寺
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2023年11月3日 (金)
(版間での差分)
(間の3版分が非表示) | |||
1行: | 1行: | ||
- | '''観音寺'''(かんのんじ)は、京都府京都市東山区泉涌寺山内町にある[[観音信仰]]の[[真言宗]] | + | '''観音寺'''(かんのんじ)は、京都府京都市東山区泉涌寺山内町にある[[観音信仰]]の[[真言宗]]寺院。本尊は[[十一面観音]]。[[後堀河天皇]]菩提寺。本寺である泉涌寺より古い。[[真言宗泉涌寺派]]。[[泉涌寺]]子院。[[西国三十三所観音霊場]]第15番札所。[[新熊野神社]]の本地仏を祀るという。'''今熊野観音寺'''。[[泉山陵墓地]]の[[後堀河天皇陵]]が隣接する。山号は新那智山で、[[熊野三山]]の[[那智山]]に擬えられている。[[泉涌寺関連旧跡]]。(参考:同名寺院[[観音寺]]) |
==歴史== | ==歴史== | ||
- | + | *弘仁年間(あるいは天長年間)に[[空海]]が[[嵯峨天皇]]の勅願で創建したとも、左大臣藤原緒嗣が自邸を寺としたのが始まりともいう。[[鳥辺野]]に接する地にあり、貴顕の墓が多く築かれた。 | |
- | + | *969年(安和2年)10月:左大臣藤原師尹を観音寺の西岡に埋葬。 | |
- | + | *1016年(長和5年)8月:藤原穆子(一条尼、[[藤原道長]]室の母)を観音寺の「無常所」に埋葬。 | |
- | + | *1234年(文暦1年)8月:[[後堀河天皇]]を寺の北に葬った。 | |
- | + | *1244年(寛元2年)1月:[[四条天皇]]の三回忌に法華八講を厳修。 | |
- | + | *1160年(永暦1年):[[後白河法皇]]は[[法住寺殿]]の近くに[[新熊野神社]]を創建。観音寺が本地仏に当てられた。 | |
- | + | *1468年(応仁2年)8月:兵火で焼失。 | |
- | + | *1580年(天正8年):再興するが往時の規模には至らなかった。 | |
- | + | *正徳年間:宗絮祖元が現在の本堂を再建した。 | |
- | + | ||
- | + | ||
- | + | ||
- | + | ||
- | + | ||
- | + | ||
- | + | ||
(『国史大辞典』) | (『国史大辞典』) | ||
==伽藍== | ==伽藍== | ||
*本堂:本尊の十一面観音は空海作と伝える。 | *本堂:本尊の十一面観音は空海作と伝える。 | ||
- | * | + | *[[医聖堂]]: |
*大師堂: | *大師堂: | ||
*大講堂: | *大講堂: | ||
34行: | 27行: | ||
*[[後堀河天皇陵]]:元は法華堂に葬られたという。長年所在不明になっていたが、「元禄の修陵」の際には山内の石塔が比定された。しかし、『山陵志』で現在地が推定され、それが幕末の「文久の修陵」で採用されて現在に至る。 | *[[後堀河天皇陵]]:元は法華堂に葬られたという。長年所在不明になっていたが、「元禄の修陵」の際には山内の石塔が比定された。しかし、『山陵志』で現在地が推定され、それが幕末の「文久の修陵」で採用されて現在に至る。 | ||
*[[鳥戸野陵]]: | *[[鳥戸野陵]]: | ||
- | *慈円塔:今熊野観音寺墓地の中にある。3基の石塔が並ぶ。[[慈円]] | + | *慈円塔:今熊野観音寺墓地の中にある。3基の石塔が並ぶ。[[慈円]]のものとされるが由緒は不詳。 |
*藤原長家塔:今熊野観音寺墓地の中にある。 | *藤原長家塔:今熊野観音寺墓地の中にある。 | ||
*藤原忠通塔:今熊野観音寺墓地の中にある。 | *藤原忠通塔:今熊野観音寺墓地の中にある。 | ||
*島津逆修塔:今熊野観音寺墓地の中にある。慶長の造立。5基が並ぶ。近くには歴代住職の墓もある。 | *島津逆修塔:今熊野観音寺墓地の中にある。慶長の造立。5基が並ぶ。近くには歴代住職の墓もある。 | ||
+ | <Gallery widths="300" heights="200" perrow="3"> | ||
+ | file:今熊野観音寺001.jpg| | ||
+ | file:今熊野観音寺002.jpg| | ||
+ | file:今熊野観音寺003.jpg| | ||
+ | file:今熊野観音寺013.jpg|本堂 | ||
+ | file:今熊野観音寺004.jpg|大師堂 | ||
+ | file:今熊野観音寺005.jpg| | ||
+ | file:今熊野観音寺006.jpg| | ||
+ | file:今熊野観音寺007.jpg| | ||
+ | file:今熊野観音寺009.jpg|医聖堂 | ||
+ | file:今熊野観音寺008.jpg|医聖堂 | ||
+ | file:今熊野観音寺010.jpg| | ||
+ | file:今熊野観音寺011.jpg| | ||
+ | file:今熊野観音寺012.jpg| | ||
+ | file:今熊野観音寺014.jpg|慈円塔 | ||
+ | file:今熊野観音寺015.jpg| | ||
+ | </Gallery> | ||
==資料== | ==資料== | ||
*出雲路敬和『新熊野観音寺千百五十年史』 | *出雲路敬和『新熊野観音寺千百五十年史』 | ||
[[category:京都府]] | [[category:京都府]] |
2023年11月3日 (金) 時点における最新版
観音寺(かんのんじ)は、京都府京都市東山区泉涌寺山内町にある観音信仰の真言宗寺院。本尊は十一面観音。後堀河天皇菩提寺。本寺である泉涌寺より古い。真言宗泉涌寺派。泉涌寺子院。西国三十三所観音霊場第15番札所。新熊野神社の本地仏を祀るという。今熊野観音寺。泉山陵墓地の後堀河天皇陵が隣接する。山号は新那智山で、熊野三山の那智山に擬えられている。泉涌寺関連旧跡。(参考:同名寺院観音寺)
歴史
- 弘仁年間(あるいは天長年間)に空海が嵯峨天皇の勅願で創建したとも、左大臣藤原緒嗣が自邸を寺としたのが始まりともいう。鳥辺野に接する地にあり、貴顕の墓が多く築かれた。
- 969年(安和2年)10月:左大臣藤原師尹を観音寺の西岡に埋葬。
- 1016年(長和5年)8月:藤原穆子(一条尼、藤原道長室の母)を観音寺の「無常所」に埋葬。
- 1234年(文暦1年)8月:後堀河天皇を寺の北に葬った。
- 1244年(寛元2年)1月:四条天皇の三回忌に法華八講を厳修。
- 1160年(永暦1年):後白河法皇は法住寺殿の近くに新熊野神社を創建。観音寺が本地仏に当てられた。
- 1468年(応仁2年)8月:兵火で焼失。
- 1580年(天正8年):再興するが往時の規模には至らなかった。
- 正徳年間:宗絮祖元が現在の本堂を再建した。
(『国史大辞典』)
伽藍
- 本堂:本尊の十一面観音は空海作と伝える。
- 医聖堂:
- 大師堂:
- 大講堂:
- 地蔵堂:
- 熊野権現社:
- 稲荷社:
- 金龍弁財天:
- 今熊野西国霊場:
- 霊光殿:
- 五智水:
- 福海寮:茶室。
- 後堀河天皇陵:元は法華堂に葬られたという。長年所在不明になっていたが、「元禄の修陵」の際には山内の石塔が比定された。しかし、『山陵志』で現在地が推定され、それが幕末の「文久の修陵」で採用されて現在に至る。
- 鳥戸野陵:
- 慈円塔:今熊野観音寺墓地の中にある。3基の石塔が並ぶ。慈円のものとされるが由緒は不詳。
- 藤原長家塔:今熊野観音寺墓地の中にある。
- 藤原忠通塔:今熊野観音寺墓地の中にある。
- 島津逆修塔:今熊野観音寺墓地の中にある。慶長の造立。5基が並ぶ。近くには歴代住職の墓もある。
資料
- 出雲路敬和『新熊野観音寺千百五十年史』