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讃岐・水主神社
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
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- | + | 宝亀年間の創建と伝える(惣官盛村申状案)。[[孝霊天皇]]皇女の倭迹迹日百襲姫命が8歳の時にこの地に住んだという。 | |
836年(承和3年)11月7日に「讃岐国水主神」に従五位下が授けられ(『続日本後紀』)、866年(貞観8年)4月9日に従五位上となった(『三代実録』)。940年(天慶3年)には藤原純友の乱平定祈願の功で正五位下となったともいう(長寛勘文)。 | 836年(承和3年)11月7日に「讃岐国水主神」に従五位下が授けられ(『続日本後紀』)、866年(貞観8年)4月9日に従五位上となった(『三代実録』)。940年(天慶3年)には藤原純友の乱平定祈願の功で正五位下となったともいう(長寛勘文)。 | ||
- | 平安時代末期に大般若経が寄進され、それを収めるために1386年(元中3年/至徳3年) | + | 平安時代末期に大般若経が寄進され、それを収めるために1386年(元中3年/至徳3年)経函60函が寄進された。「[[北野社]]一切経」(京都[[大報恩寺]]蔵)に1412年(応永19年)の奥書に「大水主社 良仁」とあり写経活動が盛んだったとみられる。1237年(嘉禎3年)、1346年(正平1年/貞和2年)、1394年(応永1年)、1424年(応永31年)、1474年(文明6年)に社殿造営。1583年(天正11年)長宗我部軍の兵火で本殿以外焼失。 |
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- | + | 近世、生駒氏が入領すると大内郡の総鎮守として崇敬した。水主村の大庄屋により支えられた。1640年(寛永17年)、1664年(寛文4年)、1685年(貞享2年)、1692年(元禄5年)、1733年(享保18年)に社殿造営。[[正親町天皇]]が「正一位大水主大明神」の勅額を奉納したという。 | |
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- | + | 『讃岐国名勝図会』によると大内郡の総鎮守として栄え、社家75人、僧坊42宇を誇ったが寛文年間に藩主が[[讃岐・白鳥神社]]を修造し朱印地を寄進した以降、氏子が白鳥神社に移り、衰微したという。1858年(安政5年)本殿再建。不備があったらしく1863年(文久3年)に再建(修造)したのが現在の社殿という。幣殿は1865年(慶応1年)再建。 | |
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大水寺は与田寺末で、本尊は阿弥陀如来。水徳山宝珠院神宮寺と称していたが、寛文年間に | 大水寺は与田寺末で、本尊は阿弥陀如来。水徳山宝珠院神宮寺と称していたが、寛文年間に | ||
大水寺と改称した。1869年(明治2年)神仏分離で廃絶し、本尊は円光寺に移された。 | 大水寺と改称した。1869年(明治2年)神仏分離で廃絶し、本尊は円光寺に移された。 | ||
- | 1902年(明治35年) | + | 1902年(明治35年)3月、県社(神道史大辞典)。 |
大水主大明神旧記、大般若経600巻および経箱60箱、水主神社関係神宮寺坊配置図(1821年(文政4年))など多くの古文書の他、神像を伝える。 | 大水主大明神旧記、大般若経600巻および経箱60箱、水主神社関係神宮寺坊配置図(1821年(文政4年))など多くの古文書の他、神像を伝える。 | ||
+ | (日本歴史地名大系、大内町史) | ||
- | + | ==境内== | |
- | + | *本社:祭神は倭迹迹日百襲姫命。 | |
+ | *熊野三社:祭神は早玉男命・伊邪那美命・事解男命。水主三山(本宮山・虎丸山・那智山)が[[熊野三山]]に見立てられている。 | ||
+ | *国玉神社:祭神は倭国香姫命。倭迹迹日百襲姫命の母。 | ||
+ | *孝霊神社:祭神は孝霊天皇。倭迹迹日百襲姫命の父。 | ||
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2021年7月3日 (土) 時点における版
水主神社(みずし・じんじゃ)は香川県東かがわ市水主(讃岐国大内郡)にある神社。祭神は倭迹迹日百襲姫命。熊野信仰の影響も受けている。官社。県社。大水主社、大水主大明神ともいう。背後の社叢は倭迹迹日百襲姫命の陵墓という。(参考:同名神社水主神社)
歴史
宝亀年間の創建と伝える(惣官盛村申状案)。孝霊天皇皇女の倭迹迹日百襲姫命が8歳の時にこの地に住んだという。 836年(承和3年)11月7日に「讃岐国水主神」に従五位下が授けられ(『続日本後紀』)、866年(貞観8年)4月9日に従五位上となった(『三代実録』)。940年(天慶3年)には藤原純友の乱平定祈願の功で正五位下となったともいう(長寛勘文)。
平安時代末期に大般若経が寄進され、それを収めるために1386年(元中3年/至徳3年)経函60函が寄進された。「北野社一切経」(京都大報恩寺蔵)に1412年(応永19年)の奥書に「大水主社 良仁」とあり写経活動が盛んだったとみられる。1237年(嘉禎3年)、1346年(正平1年/貞和2年)、1394年(応永1年)、1424年(応永31年)、1474年(文明6年)に社殿造営。1583年(天正11年)長宗我部軍の兵火で本殿以外焼失。
近世、生駒氏が入領すると大内郡の総鎮守として崇敬した。水主村の大庄屋により支えられた。1640年(寛永17年)、1664年(寛文4年)、1685年(貞享2年)、1692年(元禄5年)、1733年(享保18年)に社殿造営。正親町天皇が「正一位大水主大明神」の勅額を奉納したという。
『讃岐国名勝図会』によると大内郡の総鎮守として栄え、社家75人、僧坊42宇を誇ったが寛文年間に藩主が讃岐・白鳥神社を修造し朱印地を寄進した以降、氏子が白鳥神社に移り、衰微したという。1858年(安政5年)本殿再建。不備があったらしく1863年(文久3年)に再建(修造)したのが現在の社殿という。幣殿は1865年(慶応1年)再建。
別当寺は古くは真言宗与田寺だったが、室町時代には円光寺に移り、近世には大水寺になった。 大水寺は与田寺末で、本尊は阿弥陀如来。水徳山宝珠院神宮寺と称していたが、寛文年間に 大水寺と改称した。1869年(明治2年)神仏分離で廃絶し、本尊は円光寺に移された。 1902年(明治35年)3月、県社(神道史大辞典)。
大水主大明神旧記、大般若経600巻および経箱60箱、水主神社関係神宮寺坊配置図(1821年(文政4年))など多くの古文書の他、神像を伝える。 (日本歴史地名大系、大内町史)
境内
- 本社:祭神は倭迹迹日百襲姫命。
- 熊野三社:祭神は早玉男命・伊邪那美命・事解男命。水主三山(本宮山・虎丸山・那智山)が熊野三山に見立てられている。
- 国玉神社:祭神は倭国香姫命。倭迹迹日百襲姫命の母。
- 孝霊神社:祭神は孝霊天皇。倭迹迹日百襲姫命の父。