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四天王寺秋野坊
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
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1887年(明治20年)頃に廃絶した(大原社会問題研究所栞) | 1887年(明治20年)頃に廃絶した(大原社会問題研究所栞) | ||
- | 1906年(明治39年)、大阪養老院(社会福祉法人聖徳会大阪老人ホーム)創設者の岩田民次郎が四天王寺旧秋野坊を借りて「大阪養老院少年部」を設置。1911年(明治44年) | + | 1906年(明治39年)、大阪養老院(社会福祉法人聖徳会大阪老人ホーム)創設者の岩田民次郎が四天王寺旧秋野坊を借りて「大阪養老院少年部」を設置。1911年(明治44年)11月29日、旧秋野坊旧蔵の太子自作と伝える小型の摂政太子坐像を阿倍野の大阪養老院に迎え、翌1912年(大正1年)、秋野坊太子殿も大阪毎日新聞社社長本山彦一の寄進で移築して聖徳殿と名付けた。また左甚五郎作の太子像もあった。1927年(昭和2年)大阪養老院の火災で、左甚五郎作の像は焼失した。太子自作像は松原市に移転した聖徳会大阪老人ホームに現存する。 |
1920年(大正9年)、秋野坊跡地に大原社会問題研究所が置かれた。 | 1920年(大正9年)、秋野坊跡地に大原社会問題研究所が置かれた。 |
2021年9月20日 (月) 時点における版
秋野坊は大阪府大阪市天王寺区伶人町にあった天台宗寺院。廃絶。四天王寺子院で、四天王寺執行職(公文所職)を世襲した。小野妹子の末裔という(慊堂日暦)。四天王寺関連旧跡
南北朝時代には存在していた。北朝からは四天王寺の納所職として認められ、南朝からは1340年(興国1年/暦応3年)、念仏三昧院領新開庄領主を安堵されている。1365年(正平20年/貞治4年)安居神社別当職が1期に限り秋野坊に譲られた。
1510年(永正7年)には地震で被災した伽藍の修復のための諸国募財を行っている。妻帯。50石。四天王寺の西に屋敷があった。1879年(明治12年)からしばらくの間、東成郡役所が置かれた。
1887年(明治20年)頃に廃絶した(大原社会問題研究所栞)
1906年(明治39年)、大阪養老院(社会福祉法人聖徳会大阪老人ホーム)創設者の岩田民次郎が四天王寺旧秋野坊を借りて「大阪養老院少年部」を設置。1911年(明治44年)11月29日、旧秋野坊旧蔵の太子自作と伝える小型の摂政太子坐像を阿倍野の大阪養老院に迎え、翌1912年(大正1年)、秋野坊太子殿も大阪毎日新聞社社長本山彦一の寄進で移築して聖徳殿と名付けた。また左甚五郎作の太子像もあった。1927年(昭和2年)大阪養老院の火災で、左甚五郎作の像は焼失した。太子自作像は松原市に移転した聖徳会大阪老人ホームに現存する。
1920年(大正9年)、秋野坊跡地に大原社会問題研究所が置かれた。