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恭明宮
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
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しかし、恭明宮は廃止の方針となり、1873年(明治6年)3月14日(あるいは17日)、位牌・念持仏は[[泉涌寺]]に遷座した。3月3日付の岩倉具視による廃止の上申書が残されている。 | しかし、恭明宮は廃止の方針となり、1873年(明治6年)3月14日(あるいは17日)、位牌・念持仏は[[泉涌寺]]に遷座した。3月3日付の岩倉具視による廃止の上申書が残されている。 | ||
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廃止後の恭明宮は、付属建物の一部が京都盲唖院に移築された。現在も京都府立盲学校に恭明宮の瓦が残されているという。 | 廃止後の恭明宮は、付属建物の一部が京都盲唖院に移築された。現在も京都府立盲学校に恭明宮の瓦が残されているという。 |
2011年8月27日 (土) 時点における版
恭明宮(きょうめいぐう)とは、明治初期に創建された、皇室歴代の念持仏を奉安する宮内省の仏堂である。のち泉涌寺に遷座合祀された。
皇室では平安時代中期より、御黒戸と呼ばれる間に、天皇皇族の位牌や念持仏を祀ってきた。しかし、明治維新に伴う皇室祭祀の神式化によって、お黒戸は廃止されることになった。皇室の祖先祭祀は、新たに創建された皇霊殿で行うこととなり、従来の天皇皇族の位牌と念持仏を宮中の外に遷す必要が生じた。そこで、新たに堂宇を建てて遷座奉安することになった。
また明治天皇の東京行幸に伴わなかった女官たちの住居も設置された。
1870年(明治3年)7月ごろには計画されていた。 1871年(明治4年)5月30日、水薬師寺の一室を恭明宮仮殿として遷座した。中御門経之が恭明宮御用掛に任じられた。 ついで、同年11月、方広寺境内(現在の京都国立博物館の地)に恭明宮を造営し、位牌・念持仏を遷座した。11月10日には宮内省の管轄となっている。 建設の際には、方広寺鐘楼(大坂の陣の理由にされた鐘が掛かる)が撤去された。
しかし、恭明宮は廃止の方針となり、1873年(明治6年)3月14日(あるいは17日)、位牌・念持仏は泉涌寺に遷座した。3月3日付の岩倉具視による廃止の上申書が残されている。 当初は舎利殿に奉安されたが、のち位牌などは霊明殿へ、念持仏などは海会堂に奉安された。
廃止後の恭明宮は、付属建物の一部が京都盲唖院に移築された。現在も京都府立盲学校に恭明宮の瓦が残されているという。
参考文献
- 阪本健一1968年(昭和43年)「皇室に於ける神仏分離」『明治維新神道百年史』第4巻
- 1883年(明治16年)5月2日『開花新聞』44
- 『岩倉具視関係文書』
- 「恭明宮関係書類 中御門家文書」『古典籍総合データベース』
- 「京都盲唖院における空間構成と教育プログラムに関する研究」
- 京都府立盲学校ウェブサイト[1]