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善光寺東京別院
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
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+ | 1902年(明治35年)、一光三尊如来(善光寺如来、一光三尊の[阿弥陀如来三尊のこと)を勧請して本尊とした。東京府下に善光寺の講社を多数組織して、信濃善光寺への参詣をさかんに行った。 | ||
+ | 関東大震災後の区画整理により、1927年(昭和2年)に現在地に遷座。1945年(昭和20年)3月10日の東京大空襲で焼失した。 | ||
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+ | 善光寺別院と称しているが、東京の講社の代表というような位置付けだろうか。 | ||
+ | 信濃善光寺は天台宗寺院と浄土宗寺院の二つの宗派の寺院によって、護持されているが、当寺は天台宗の寺院である。浄土宗寺院としては、東京青山に出張所として[[青山善光寺]]がある。 | ||
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+ | ==参考文献== | ||
+ | *『天台宗東京教区ウェブサイト』「華蔵院」[http://www.tendaitokyo.jp/jiinmei/jinss/ss2kezo.asp][2011年9月16日閲覧] | ||
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ファイル:Zenkoji-tokyo-ueno 001.jpg|正門 | ファイル:Zenkoji-tokyo-ueno 001.jpg|正門 |
2011年9月16日 (金) 時点における版
善光寺東京別院は、信濃善光寺の別院となっている天台宗寺院である。 正式には、宝光山影現寺華蔵院と称す。本尊は阿弥陀如来である。
1611年(慶長16年)、伝長が七軒町に復興。のち寛永寺の末寺となり、寛永寺住職(輪王寺門跡?あるいは一山寺院の住職かのこと?)の隠居寺となった。 1902年(明治35年)、一光三尊如来(善光寺如来、一光三尊の[阿弥陀如来三尊のこと)を勧請して本尊とした。東京府下に善光寺の講社を多数組織して、信濃善光寺への参詣をさかんに行った。 関東大震災後の区画整理により、1927年(昭和2年)に現在地に遷座。1945年(昭和20年)3月10日の東京大空襲で焼失した。
1948年(昭和23年)、品川毛利本家より毛利本家祖霊社旧殿を移築し、本堂とした。そのため、寺院でありながら、神社建築の本堂となっている。
善光寺別院と称しているが、東京の講社の代表というような位置付けだろうか。 信濃善光寺は天台宗寺院と浄土宗寺院の二つの宗派の寺院によって、護持されているが、当寺は天台宗の寺院である。浄土宗寺院としては、東京青山に出張所として青山善光寺がある。
参考文献
- 『天台宗東京教区ウェブサイト』「華蔵院」[1][2011年9月16日閲覧]