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河内・大念寺
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
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- | '''大念寺'''(だいねんじ)は、大阪府南河内郡河南町(河内国石川郡大ケ塚村)にある[[融通念仏宗]]寺院。[[河内六別時]](中本山)の一つで、'''石川別時'''と呼ばれた。'''紫雲山迎接院''' | + | '''大念寺'''(だいねんじ)は、大阪府南河内郡河南町(河内国石川郡大ケ塚村)にある[[融通念仏宗]]寺院。[[河内六別時]](中本山)の一つで、'''石川別時'''と呼ばれた。'''紫雲山迎接院'''と称す。[[善導]]筆の二十五菩薩来迎画像を本尊とする。(参考:同名寺院[[大念寺_(同名)]]) |
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[[浄土真宗]]の'''大ケ塚御坊'''([[大ケ塚・顕証寺]])などが集まる大ケ塚寺内町の中にある。元亨3年(1323)、[[法明]]が創建(正中2年(1325)とも)。大伽藍があり、永正2年(1505)の火災で焼失したというが、中世の融通念仏宗の寺院は信徒の家を交代で道場とする「挽道場」であったので、疑わしい。六別時の中でもっとも早く場所を固定化し、寺号を称したとされ、天文年間(1532-1555)に大ケ塚村に道場が置かれ、慶長13年(1608)に'''大念寺'''と称したという( 『融通念佛宗 その歴史と遺宝』21頁)。寺院化について塩野芳夫は、寺内町の発展に歩調を合わせたものと推定している。正保3年(1645)に再建される。木造十一面観音立像は、国重要文化財で、[[最澄]]の作と伝える。 | [[浄土真宗]]の'''大ケ塚御坊'''([[大ケ塚・顕証寺]])などが集まる大ケ塚寺内町の中にある。元亨3年(1323)、[[法明]]が創建(正中2年(1325)とも)。大伽藍があり、永正2年(1505)の火災で焼失したというが、中世の融通念仏宗の寺院は信徒の家を交代で道場とする「挽道場」であったので、疑わしい。六別時の中でもっとも早く場所を固定化し、寺号を称したとされ、天文年間(1532-1555)に大ケ塚村に道場が置かれ、慶長13年(1608)に'''大念寺'''と称したという( 『融通念佛宗 その歴史と遺宝』21頁)。寺院化について塩野芳夫は、寺内町の発展に歩調を合わせたものと推定している。正保3年(1645)に再建される。木造十一面観音立像は、国重要文化財で、[[最澄]]の作と伝える。 | ||
2018年9月2日 (日) 時点における版
大念寺(だいねんじ)は、大阪府南河内郡河南町(河内国石川郡大ケ塚村)にある融通念仏宗寺院。河内六別時(中本山)の一つで、石川別時と呼ばれた。紫雲山迎接院と称す。善導筆の二十五菩薩来迎画像を本尊とする。(参考:同名寺院大念寺_(同名))
歴史
浄土真宗の大ケ塚御坊(大ケ塚・顕証寺)などが集まる大ケ塚寺内町の中にある。元亨3年(1323)、法明が創建(正中2年(1325)とも)。大伽藍があり、永正2年(1505)の火災で焼失したというが、中世の融通念仏宗の寺院は信徒の家を交代で道場とする「挽道場」であったので、疑わしい。六別時の中でもっとも早く場所を固定化し、寺号を称したとされ、天文年間(1532-1555)に大ケ塚村に道場が置かれ、慶長13年(1608)に大念寺と称したという( 『融通念佛宗 その歴史と遺宝』21頁)。寺院化について塩野芳夫は、寺内町の発展に歩調を合わせたものと推定している。正保3年(1645)に再建される。木造十一面観音立像は、国重要文化財で、最澄の作と伝える。
参考文献
- 『大阪府全志』4巻
- 大阪市立博物館編、平成3『融通念佛宗 その歴史と遺宝』
- 塩野芳夫著、1995『近世畿内の社会と宗教』和泉書院