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祥雲寺
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
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天正19年(1591)8月、鶴松が死去すると養育係だった石川光重の勧めで、秀吉は葬儀を[[妙心寺]]で行った。遺骸は妙心寺玉鳳院に埋葬され、鶴松像を祀る霊廟が建てられた。 | 天正19年(1591)8月、鶴松が死去すると養育係だった石川光重の勧めで、秀吉は葬儀を[[妙心寺]]で行った。遺骸は妙心寺玉鳳院に埋葬され、鶴松像を祀る霊廟が建てられた。 | ||
ついで秀吉は菩提寺を[[京都・方広寺]]のそばに建てることを発願。同月には前田玄以が奉行となり着工した。建設状況は不明だが文禄2年(1593)には伽藍が整ったとみられ、鶴松の三回忌を営んだ。 | ついで秀吉は菩提寺を[[京都・方広寺]]のそばに建てることを発願。同月には前田玄以が奉行となり着工した。建設状況は不明だが文禄2年(1593)には伽藍が整ったとみられ、鶴松の三回忌を営んだ。 | ||
初代住職には[[妙心寺]]58世の南化玄興が就任した。慶長元年(1596)、秀吉は300石を寄進した。のち海山元珠が2世となった。『日本歴史地名大系』では妙心寺の塔頭とする。 | 初代住職には[[妙心寺]]58世の南化玄興が就任した。慶長元年(1596)、秀吉は300石を寄進した。のち海山元珠が2世となった。『日本歴史地名大系』では妙心寺の塔頭とする。 | ||
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江戸時代、豊臣氏が滅亡すると、元和元年(1615)隣接する[[豊国神社]]と共に祥雲寺も徳川幕府により廃絶。跡地と伽藍は智積院に与えられた。旧境内の東半分に当たる。住職の海山元珠は妙心寺の自坊に戻り、名を継ぐ雲祥院と改称した。海山元珠は祥雲寺の鶴松像も妙心寺に奉遷し、隣華院に祀った。法堂は智積院本堂として使われていたが明治15年に焼失。智積院には他にも創建当初の伽藍が残っていたが天和2年(1682)の火災で焼失した。長谷川等伯の障壁画が現存。 | 江戸時代、豊臣氏が滅亡すると、元和元年(1615)隣接する[[豊国神社]]と共に祥雲寺も徳川幕府により廃絶。跡地と伽藍は智積院に与えられた。旧境内の東半分に当たる。住職の海山元珠は妙心寺の自坊に戻り、名を継ぐ雲祥院と改称した。海山元珠は祥雲寺の鶴松像も妙心寺に奉遷し、隣華院に祀った。法堂は智積院本堂として使われていたが明治15年に焼失。智積院には他にも創建当初の伽藍が残っていたが天和2年(1682)の火災で焼失した。長谷川等伯の障壁画が現存。 | ||
(『日本歴史地名大系』、『豊太閤の私的生活』ほか) | (『日本歴史地名大系』、『豊太閤の私的生活』ほか) |
2018年4月25日 (水) 時点における版
祥雲寺(しょううんじ)は、京都東山にあった豊臣氏ゆかりの臨済宗寺院。豊臣秀吉の嫡男鶴松(棄丸、棄君)の菩提寺として創建された。元和元年に廃絶し、跡地は智積院となった。
歴史
創建
天正19年(1591)8月、鶴松が死去すると養育係だった石川光重の勧めで、秀吉は葬儀を妙心寺で行った。遺骸は妙心寺玉鳳院に埋葬され、鶴松像を祀る霊廟が建てられた。 ついで秀吉は菩提寺を京都・方広寺のそばに建てることを発願。同月には前田玄以が奉行となり着工した。建設状況は不明だが文禄2年(1593)には伽藍が整ったとみられ、鶴松の三回忌を営んだ。 初代住職には妙心寺58世の南化玄興が就任した。慶長元年(1596)、秀吉は300石を寄進した。のち海山元珠が2世となった。『日本歴史地名大系』では妙心寺の塔頭とする。
廃絶
江戸時代、豊臣氏が滅亡すると、元和元年(1615)隣接する豊国神社と共に祥雲寺も徳川幕府により廃絶。跡地と伽藍は智積院に与えられた。旧境内の東半分に当たる。住職の海山元珠は妙心寺の自坊に戻り、名を継ぐ雲祥院と改称した。海山元珠は祥雲寺の鶴松像も妙心寺に奉遷し、隣華院に祀った。法堂は智積院本堂として使われていたが明治15年に焼失。智積院には他にも創建当初の伽藍が残っていたが天和2年(1682)の火災で焼失した。長谷川等伯の障壁画が現存。 (『日本歴史地名大系』、『豊太閤の私的生活』ほか)