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後七日御修法関連旧跡
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
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+ | 空海が結願の後、清涼殿に参内し、秘法を持って香水で行った | ||
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+ | 明治再興の際、玉体加持は認められなかった。ところが1883年(明治16年)の結願の後、別所栄厳が1月20日、宮中参内し拝謁。 | ||
+ | 別所栄厳は袖の中で密かに玉体加持の作法を行ったという。 | ||
+ | しかしそれ以来は行われていないという。 | ||
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+ | 奏状「宮中真言院正月御修法」 | ||
+ | 御遺告「宮中正月後七日御願修法」 | ||
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== 道場== | == 道場== |
2019年1月20日 (日) 時点における版
後七日御修法(ごしちにちみしほ)。勅会。真言宗の四つの宮中法会(後七日御修法、大元帥御修法、仁寿殿観音供、晦日御念誦)の一つ。
目次 |
歴史
空海は御修法を行う上奏文を提出し、834年(承和1年)12月、勅許を得る。835年(承和2年)1月8日に初めて行った。会場は勘解由使庁を改造して真言院とした。1月8日から1月14日の期間は大極殿での御斎会が恒例となっていたが、空海は密教修法の意義を説いて認められた。空海は同年死去。顕教の御斎会、密教の後七日御修法が相補うような関係となり、10世紀には両者の結合として内論義の儀式も成立した。
後七日御修法の本尊は曼荼羅(金剛界・胎蔵界を一年交代)と考えるのが基本だが、観賢(853-925)の時代には仏舎利を本尊とする説もあった。仏舎利を納めた宝塔がその年の曼荼羅前の大壇の上に据えられた。
1353年(正平8年/文和2年)の真言院廃滅の後は、明治初年まで紫宸殿が道場となった。1460年(寛正1年)を最後に百数十年中断。近世、醍醐寺義演の働き掛けで1623年(元和9年)復興。1871年(明治4年)廃絶するが、1883年(明治16年)1月8日、東寺灌頂院を道場として復興した。
「玉体安康」が目的に加わるのは11世紀ごろからという。
次第
毎年1月8日から14日まで真言院で実施。同期間には大極殿での御斎会や治部省での大元法も行われていた。
金剛界立と胎蔵界立を交互に行う。 835年(承和2年)の初回の御修法では胎蔵界立で行われたと推測されている。それは前年に臨時で行った御修法で金剛界立を行った記述が『禁中年中行事』などにあるからだという。 東密には数十の流派があるが後七日御修法を修した12流派を根本十二流という。 明治中興以降は勧修寺流金剛界立と西院流胎蔵界立を交互に行う。
1月8日の明け方から始まった。
御衣加持は12日、13日、14日の後夜法要・初夜法要に計9回行われた。日中法要では行わなかった。
結願の日に玉体加持が行われた。天皇の出御がない時は御衣加持のみとした。明治以降は御衣加持を行っている。
結願の日には仏舎利の数を数える儀式が行われた。功徳に応じて仏舎利の数が増減すると信仰されている。
この他、現在清涼殿の二間観音の祭祀が継承され、1月12日に観音供が行われる。
香水は神泉苑の水、もしくは秋篠寺の井戸(大元法?)から組まれた水が使われたという。 室生寺の龍穴を観想する行があるという。
加持には玉体加持、香水加持、御衣加持の三種がある。
玉体加持が中心。
香水加持は玉体加持の前段階 御衣加持は御衣加持の変形
香水加持は1月12日の暁は神泉苑で霊水を組み 名香を入れて加持する
13日暁から3日間加持する 「三日九時の加持」と呼ぶ
御衣加持は天皇の衣服を壇上に安置してそれを天皇の身体と観念して祈念する 天皇はその加持した衣服を着用することとで災害を払い、威福を増加させる
皇后、皇太子ら皇族の御衣を加持することもあった。
あるいは御撫物(ぎょぶもつ)を安置して修法したこともある。 天皇が着た御衣や御櫛、御冠などを包んで本尊の前に置いた
玉体加持は14日の結願の後に天皇に直接加持する。 空海が結願の後、清涼殿に参内し、秘法を持って香水で行った
明治再興の際、玉体加持は認められなかった。ところが1883年(明治16年)の結願の後、別所栄厳が1月20日、宮中参内し拝謁。
別所栄厳は袖の中で密かに玉体加持の作法を行ったという。
しかしそれ以来は行われていないという。
奏状「宮中真言院正月御修法」 御遺告「宮中正月後七日御願修法」
同期間、後七日御修法の他、御斎会と大元帥法が行われていたが、 後七日御修法と大元帥法は終了時間を少し早め、両法会に参加し終わった僧侶も 御斎会の結願にあたって行われる御斎会内論義に合流して出仕した。
道場
東壁に西向きに胎蔵界曼荼羅、西壁に東向きに金剛界曼荼羅を祀り、それぞれの前に大壇を据える。一年交代で胎蔵界曼荼羅、金剛界曼荼羅を本尊とするが、その時の大壇の中央に仏舎利を納めた金剛宝塔を据える。 北壁に南向きに五大明王画像を祀る。東庇には十二天画像を掛ける。それぞれの画像の前に机を置き供物を並べる。 『覚禅抄』によれば西北隅に増益護摩壇、西庇に息災護摩壇、北庇の東側に聖天壇があった。
内藤栄によれば、奈良時代には仏舎利そのものを法要の場に祀ることはなかった。それを修法の中心に据えたことは大きな変化で画期的だという。空海は仏舎利80粒を唐から請来した。胎蔵界系の『蘇悉地羯羅経』によれば、修法の大壇を築くふさわしい場所について説いており、舎利の安置されている塔の中で行えばことごとく成就し、特に八大塔では最上の成就を得ることができるとする。道場には一切の難がなく、魔王や諸悪の妨害を守護すると説く。仏舎利は修法壇を守護する存在として描かれている。金剛界系の『金剛頂瑜伽略出念誦経』も『蘇悉地羯羅経』に同様とする。
- 金剛界曼荼羅・大壇:身舎の西壁に祀る。
- 胎蔵界曼荼羅・大壇:身舎の東壁に祀る。
- 仏舎利塔:その年の本尊となる曼荼羅の前の大壇に奉安される。
- 五大尊:身舎の北壁に画像を祀る。
- 十二天:西庇に画像を祀る。
- 聖天壇:『覚禅抄』では庇の東北隅に壇を設ける。『行事秘抄』では身舎の南側とする。
- 息災壇:『覚禅抄』では庇の西北隅に壇を設ける。『行事秘抄』では身舎の中央とする。
- 増益壇:『覚禅抄』では庇の西北隅に壇を設ける。『行事秘抄』では身舎の北側とする。
- 二間観音:『行事秘抄』では身舎の北壁の西寄りに祀る。『覚禅抄』ではなし。現在はあり。
- 孔雀明王:『覚禅抄』には身舎の北壁の東寄りに祀る。『行事秘抄』ではなし。現在は不明。
- 神供所:
関連旧跡
年表
- 嵯峨天皇代:空海が唐より請来した観音像を仁寿殿に祀った。仁寿殿観音供(後の二間観音)の起源という。仁寿殿に祀ったのは962年(応和2年)のことともいう(年中行事秘抄、公事根源)。
- 829年(天長6年):空海、内道場設置を上奏するが受け入れられず。
- 834年(承和1年):空海、宮中中務省で臨時の御修法を行う。
- 834年(承和1年)頃:空海が後七日御修法実施の上奏文(「宮中眞言院正月御修法奏状」)を提出。
- 834年(承和1年)12月29日:勅許
- 835年(承和2年)1月8日:初めての後七日御修法。空海が大阿闍梨を務め、僧14人、沙弥14人が出仕した。
- 835年(承和2年)3月21日:空海死去。
- 927年(延長5年):『延喜式』に毎年正月8日から14日まで7日間、真言院で修すると規定される。
- 962年(応和2年):一説に仁寿殿観音供始まる。寛空が開眼したという。(年中行事秘抄、公事根源)
- 989年(永祚1年):真言院焼失?
- 1127年(大治2年):東寺宝蔵の火災で五大明王像・十二天像が焼失。その後新調される。
- 1129年(大治4年):仁寿殿観音焼失。観音像を再造。(年中行事秘抄)
- 1177年(治承1年)4月:真言院焼失。
- 1353年(正平8年/文和2年):真言院廃滅。以後、紫宸殿が道場となる。
- 1432年(永享4年):足利義教が真言院復興?
- 1460年(寛正1年):この年を最後に百数十年中断
- 1623年(元和9年):醍醐寺義演の働き掛けで復興。
- 1693年(元禄6年):現在の両界曼荼羅を制作。
- 1871年(明治4年)9月2日:後七日御修法を廃止(「明治以降野峯高僧伝」)。
- 1882年(明治15年)8月4日:御修法再興の許可(「宮中後七日御修法勤修の旨趣及由来」)
- 1883年(明治16年)1月8日:釈雲照らの働き掛けで復興。東寺灌頂院が道場となる。
- 1912年(大正1年)1月15日:真言宗各宗派連合、「宮中後七日御修法勤修の旨趣及由来」を提出。
法具
- 両界曼荼羅図
- 金銅五鈷杵:現在も使用。国宝「金銅密教法具」の一部。東寺蔵。唐代の作。空海の時代から使われ続けているとされる。
- 金銅五鈷鈴:現在も使用。国宝「金銅密教法具」の一部。東寺蔵。唐代の作。空海の時代から使われ続けているとされる。
- 金銅五鈷盤:現在も使用。国宝「金銅密教法具」の一部。東寺蔵。唐代の作。空海の時代から使われ続けているとされる。
- 金剛宝塔
- 五大尊画像:五大明王を描く。
- 五大尊像:国宝。東寺蔵。絹本著色。平安時代。
- 十二天画像:十二天を描く。
- 長久本:1040年(長久1年)作。1127年(大治2年)焼失。
- 大治本:国宝。京都国立博物館蔵。絹本著色。平安時代。1127年(大治2年)作。仁和寺円堂本を模写したという。画像[1]。
- 孔雀明王画像
- 金銅羯磨
資料
古典籍
- 「宮中眞言院正月御修法奏状」:空海が朝廷に提出した上奏文。1893性霊集付録[2]
- 『年中行事絵巻』:平安時代の朝廷の行事を描いた絵巻。1157~1179年ごろの成立と考えられている。原本は現存せず。江戸時代の写本が伝わる。後七日御修法の様子も描く。
- 『行事秘抄』:
- 『覚禅抄』:
- 『御質抄』:後七日御修法の記録。『続群書類従』25下に所収。
- 『後七日御修法由緒作法』:『続群書類従』25下に所収。
- 『後七日御修法部類』:『続群書類従』25下に所収。
- 『永治二年真言院御修法記』:1142年(康治1年)の記録。『続群書類従』25下に所収。
- 『養和二年後七日御修法記』:1182年(寿永1年)の記録。『続群書類従』25下に所収。
- 『文治五年己酉真言院御修法胎蔵界日記』:1189年(文治5年)の記録。『続群書類従』25下に所収。
- 『建保三年乙亥後七日御修法胎蔵界私記』:1215年(建保3年)の記録。『続群書類従』25下に所収。
- 『禅信僧正後七日修法記』:1433年(永享5年)の記録か。『続群書類従』25下に所収。
- 『後七日御修法再興記』:醍醐寺義演による近世の復興の記録。2017『後七日御修法再興記 影印・翻刻・解題』勉誠出版[3]
- 『義演准后日記』:醍醐寺義演の日記。後七日御修法復興のことも記す。
- 『真言院御修法』[4]
- 『年中行事秘抄』:1293年以前成立。[5]
- 『公事根源新釈』:[6]
文献
- 小田慈舟1940「高祖大師の鎮護国家思想とその事蹟」[7]
- 大山公淳1944「護国の仏教」[8]
- 高見寛恭・村主恵快1975「御修法について」『密教学研究』7
- 村主恵快1977「後七日御修法の伝承」『密教学』13・14
- 村主恵快1977「後七日御修法の伝承について」『密教思想』
- 村主恵快1986「後七日御修法の実録」『東洋文化学科年報』1
- 村主恵快1988「後七日御修法について(その二)」『密教学』24
- 石田尚豊1984「弘法大師と後七日御修法」『弘法大師と現代』
- 山折哲雄1985「後七日御修法と大嘗祭」『国立歴史民俗博物館研究報告』7[9]*武内孝善1986「後七日御修法交名綜覧(一)」『高野山大学論叢』21
- 武内孝善1987「後七日御修法交名綜覧(二)」『高野山大学論叢』22
- 武内孝善1988「後七日御修法交名綜覧(三)」『高野山大学論叢』23
- 武内孝善1988「後七日御修法関係典籍・文書目録(一)」『密教学会報』27
- 武内孝善1989「後七日御修法関係典籍・文書目録(二)」『密教学会報』28
- 武内孝善1990「後七日御修法関係典籍・文書目録(三)」『密教学会報』29
- 武内孝善2006「最晩年の空海」[10]
- 今井浄円1990「後七日御修法承仕出仕日記一」『龍谷大学仏教学研究室年報』4
- 今井浄円1992「後七日御修法承仕出仕日記二」『龍谷大学仏教学研究室年報』5
- 湯浅吉美1995「成田山新勝寺蔵『後七日御修法阿闍梨名帳』について」『成田山仏教研究所紀要』18
- 登坂高典1996「後七日御修法大阿付承仕荘厳記録」『豊山教学大会紀要』24
- 田中博美2000「後七日御修法翌年記元和十寛永元改」『醍醐寺文化財研究所研究紀要』18
- 水野真圓2002「後七日御修法西院聖天供次第について」『真言宗豊山派総合研究院紀要』7
- 水野真圓2002「(続)後七日御修法西院聖天供次第」『豊山教学大会紀要』30
- 登坂高典2004「後七日御修法聖天壇荘厳手控え私記西院胎蔵界立」『真言宗豊山派総合研究院紀要』9
- 内藤栄2005「後七日御修法における舎利の意味について」[11]
- 内藤栄2017「空海の舎利信仰の源流 後七日御修法とスリランカの仏歯供養」『鹿園雜集 奈良国立博物館研究紀要』[12]
- 斎木涼子2007「後七日御修法と「玉体安穏」」『南都仏教』90
- 斎木涼子2009「平安時代の宮中宗教儀礼と天皇像」要旨[13]
- 戸部憲海2011「後七日御修法について」『真言宗豊山派総合研究院紀要』16
- 真言宗伝灯会1943『勧修寺流後七日御修法具書』1[14]
- 真言宗伝灯会1943『勧修寺流後七日御修法具書』2[15]
- 真言宗伝灯会1943『勧修寺流後七日御修法具書』3[16]
- 真言宗伝灯会1943『勧修寺流後七日御修法具書』4[17]
- 広安恭寿 1893『宮中後七日御修法沿革記』[18]
- 祖風宣揚会編1915『皇室と真言宗』[19]
- 伊藤康安1942「後七日御修法と山門四箇大法」『坐禅十年』[20]
- 吉田敏雄1902「後七日御修法の再興」『釈雲照』[21]
- 葦原寂照1901「後七日御修法」『後七日御修法』[22]
- 山本忍梁1916「宮中後七日御修法」『東寺沿革略誌』[23]
- 実運「後七日御修法」『秘蔵金宝集上』[24]
- 伊藤宏見1975「雲照律師の思想と行動」[25]
- 蓮生観善1920『御修法の起源及沿革』六大新報社[26]
- 「教王護国寺蔵「伝真言院曼荼羅」の再検討」[27]
- 渡辺明義「修理報告 絹本著色両界曼荼羅図」[28]
- 石元泰博著・辻井喬序文・真鍋俊照解説2011『両界曼荼羅 東寺蔵 国宝「伝真言院両界曼荼羅」の世界』平凡社
- 2014『図録 中世密教と<玉体安穏>の祈り』神奈川県立金沢文庫