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敢国神社
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
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+ | 近代には総称して「敢国津神」とされている。これは『文徳実録』850年(嘉祥3年)6月4日に登場する神名(神社名)。 | ||
+ | 1687年(貞享4年)の『伊水温故』は祭神3座とする。「少彦名命」と「南宮金山日売」を主祭神とし、少彦名命の御神体は「仙人ノ影像」、南宮金山日売はとぐろを巻いた「蛇形」というまた相殿として「甲賀三郎」を祀り、十一面観音の坐像を祀っていたという。1763年(宝暦13年)『三国地志』では「少彦名命」「金山比咩命」を祭神とし、甲賀三郎を摂社祭神とする。 | ||
+ | 大彦命説の初見は1713年(正徳3年)の度会延経『神名帳考証』で、伊賀国の阿拝郡を根拠とした阿閇氏の祖神とされる。ただ中世には諏訪信仰の影響下にあり、諏訪神(諏訪南宮法性上下大明神)であったり、諏訪神と関係の深い南宮菩薩(南宮大社祭神)や甲賀三郎であったりされた。1568年(永禄11年)吉田兼右は中世に諏訪神が祀られるまでは大岩明神が「根本」だったと記す(兼右卿記)。大岩明神は近くの磐座に祀られていた神で、現在は境内の大石社として残る。 | ||
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+ | 現在の神社由緒では658年(斉明4年)の創建とされる。 | ||
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+ | 1341年(興国2年/暦応4年)、南朝が正一位を授けたという伝もある(南朝編年記略)。 | ||
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+ | 天正の戦乱で流亡した「神体」の1体は山城国伏見に流出したという。これを伊賀国島ケ原の水口佐右衛門という人物が取り戻し、神社への還座が実現。1620年(元和6年)1月の礼状が現存している。『伊水温故』ではこの時取り戻した御神体を「甲賀三郎の像」とする。 | ||
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+ | 1871年(明治4年)国幣中社。 | ||
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==境内== | ==境内== | ||
+ | *本社: | ||
+ | *若宮八幡社: | ||
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+ | *楠社:[[南木神社]]の分社。 | ||
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+ | *大石社:磐座から遷座。 | ||
+ | *市杵島姫社: | ||
+ | *六所社:甲賀兼家の霊像も祀るという。 | ||
+ | *九所社: | ||
+ | *桃太郎岩: | ||
+ | *護摩堂:藩主藤堂高次が1636年(寛永13年)6月建立。南宮山神光院と称し、敢国神社の別当寺となった。1665年(寛文5年)1月には将軍のための祈祷を行った記録もある。廃絶。 | ||
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+ | *御旅所:三重県伊賀市千歳野添。廃絶か。 | ||
+ | *府中神社:三重県伊賀市佐那具町。1907年(明治40年)周辺の神社を合祀。現在は敢国神社の御旅所となっている。 | ||
+ | *浅間社:南宮山の山頂にある。 | ||
+ | *磐座:神社の南200mの大岩古墳と道を隔てる場所にあった。「黒岩」と呼ばれていた。現存せず。大石社として遷座。 | ||
+ | *南宮山:標高350m。金山比咩命の旧社地。現在は浅間社がある。 | ||
+ | *[[大彦命墓_伊賀伝承地|大彦命墓]]:三重県伊賀市佐那具町。全長180m。三重県内最大の古墳。前方後円墳。北1kmにある。治定外。御墓山古墳。治定実現運動が大正年間に行われた。 | ||
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==組織== | ==組織== | ||
+ | 社家としては東家、南家、中西家があった。 | ||
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2020年2月24日 (月) 時点における版
敢国神社(あえくに・じんじゃ)は三重県伊賀市一之宮(伊賀国阿拝郡)にある神社。祭神は大彦命。少彦名命と金山比咩命を配祀する。 この地を開拓した古代の阿閇氏の祖神とするのが定説だが、中世には諏訪信仰や南宮信仰の神社でもあった。官社。名神大社。伊賀国一宮。国幣中社。別表神社。伊賀国総社という説もある。別当は神光院だった。 南宮社、敢国津大社、敢国角大明神とも呼ばれた。
目次 |
奉斎
- 大彦命
- 少彦名命
- 金山比咩命
近代には総称して「敢国津神」とされている。これは『文徳実録』850年(嘉祥3年)6月4日に登場する神名(神社名)。 1687年(貞享4年)の『伊水温故』は祭神3座とする。「少彦名命」と「南宮金山日売」を主祭神とし、少彦名命の御神体は「仙人ノ影像」、南宮金山日売はとぐろを巻いた「蛇形」というまた相殿として「甲賀三郎」を祀り、十一面観音の坐像を祀っていたという。1763年(宝暦13年)『三国地志』では「少彦名命」「金山比咩命」を祭神とし、甲賀三郎を摂社祭神とする。 大彦命説の初見は1713年(正徳3年)の度会延経『神名帳考証』で、伊賀国の阿拝郡を根拠とした阿閇氏の祖神とされる。ただ中世には諏訪信仰の影響下にあり、諏訪神(諏訪南宮法性上下大明神)であったり、諏訪神と関係の深い南宮菩薩(南宮大社祭神)や甲賀三郎であったりされた。1568年(永禄11年)吉田兼右は中世に諏訪神が祀られるまでは大岩明神が「根本」だったと記す(兼右卿記)。大岩明神は近くの磐座に祀られていた神で、現在は境内の大石社として残る。
歴史
現在の神社由緒では658年(斉明4年)の創建とされる。 768年(神護景雲2年)、近江国甲賀郡の峰寺(不詳)に「諏訪春日姫」が降臨し、敢国神社の背後の南宮山に遷り、后神となったという。
850年(嘉祥3年)6月4日の時点で従五位下とある(文徳実録)。 867年(貞観9年)10月5日、従五位上(三代実録)。873年(貞観15年)9月27日、正五位下(三代実録)。891年(寛平3年)4月28日、正五位上(日本紀略)。 1341年(興国2年/暦応4年)、南朝が正一位を授けたという伝もある(南朝編年記略)。
1579年(天正7年)と1581年(天正9年)の「伊賀の乱」で伊賀地侍と織田信長軍が激突し、兵火に焼かれた。この時、信長が南宮山の頂上に登っている。 1582年(天正10年)に本能寺の変で信長が討たれると、伊賀地侍が蜂起した。 戦乱で社殿は焼失し、「神体」が流亡した。
復興の端緒を手掛けたのが小天狗清蔵という修験者だった。1593年(文禄2年)6月8日に社殿の上棟を行っている。
1608年(慶長13年)に伊賀上野藩主に藤堂高虎が入封すると敢国神社を崇敬。改めて社殿を造営し、1609年(慶長14年)12月に本殿を上棟している。まもなく竣工したのだろう。1612年(慶長17年)、黒印地107石を寄進された。
天正の戦乱で流亡した「神体」の1体は山城国伏見に流出したという。これを伊賀国島ケ原の水口佐右衛門という人物が取り戻し、神社への還座が実現。1620年(元和6年)1月の礼状が現存している。『伊水温故』ではこの時取り戻した御神体を「甲賀三郎の像」とする。
1871年(明治4年)国幣中社。
境内
- 本社:
- 若宮八幡社:
- 子授社:
- 神明社:
- 楠社:南木神社の分社。
- 結社:
- 大石社:磐座から遷座。
- 市杵島姫社:
- 六所社:甲賀兼家の霊像も祀るという。
- 九所社:
- 桃太郎岩:
- 護摩堂:藩主藤堂高次が1636年(寛永13年)6月建立。南宮山神光院と称し、敢国神社の別当寺となった。1665年(寛文5年)1月には将軍のための祈祷を行った記録もある。廃絶。
- 御旅所:三重県伊賀市千歳野添。廃絶か。
- 府中神社:三重県伊賀市佐那具町。1907年(明治40年)周辺の神社を合祀。現在は敢国神社の御旅所となっている。
- 浅間社:南宮山の山頂にある。
- 磐座:神社の南200mの大岩古墳と道を隔てる場所にあった。「黒岩」と呼ばれていた。現存せず。大石社として遷座。
- 南宮山:標高350m。金山比咩命の旧社地。現在は浅間社がある。
- 大彦命墓:三重県伊賀市佐那具町。全長180m。三重県内最大の古墳。前方後円墳。北1kmにある。治定外。御墓山古墳。治定実現運動が大正年間に行われた。
組織
社家としては東家、南家、中西家があった。
宮司
権宮司
- 藤堂元施(1836-1877):津藩家老。