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本福寺
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
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+ | 湖西の本願寺教団の拠点として発展。 | ||
+ | 3世住職の法住は蓮如に重用され、 | ||
+ | 1465年、本願寺が延暦寺衆徒に焼き討ちされた後、 | ||
+ | 1467年2月、高野安養寺から蓮如と本願寺御影を本福寺に迎え、翌年3月12日まで滞在した。 | ||
+ | また本願寺焼き討ちの時、法住は1460年に蓮如から下付された十字名号を持って比叡山に登り、真宗の教義を説いたので、これを「登山名号」と呼ぶ。 | ||
+ | 1468年、延暦寺による堅田大責で焼失。堅田衆も沖島に避難した。町衆が戻ったのは1470年に延暦寺に礼金を収めた時だった。 | ||
+ | 1477年には近くに慈敬寺を建て本山直轄の御坊として本願寺に寄進した。 | ||
+ | 1491年12月7日焼失。 | ||
+ | 慈敬寺に入り教団支配の再編成を進める蓮如の子の蓮淳が、 | ||
+ | 本福寺の影響力を排除しようと5世明宗を3度にわたり勘気。 | ||
+ | 以後、本福寺の存在感は弱まったが、一向一揆や石山合戦でも本願寺を支えた。 | ||
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+ | 江戸時代には西本願寺につき | ||
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+ | 1611年3月24日、定衆となり、 | ||
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+ | 11世明式が松尾芭蕉に師事して千那と号し俳人として活躍した。 | ||
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*11明式(1651-1723)<>:院家となる。芭蕉の門人となる。千那と号す。感応院。著書に『白馬蹄』『白馬紀行』。 | *11明式(1651-1723)<>:院家となる。芭蕉の門人となる。千那と号す。感応院。著書に『白馬蹄』『白馬紀行』。 | ||
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*13明観()<>:号は角三。 | *13明観()<>:号は角三。 | ||
*14明随(1727-1793)<>:号は未角。真覚院。 | *14明随(1727-1793)<>:号は未角。真覚院。 |
2020年11月6日 (金) 時点における版
本福寺(ほんぷくじ)は、滋賀県大津市本堅田にある浄土真宗寺院。蓮如旧跡。本願寺遷座旧跡。浄土真宗本願寺派。堅田本福寺。山号は夕陽山。(参考:同名寺院本福寺_(同名))
目次 |
歴史
正和年間(1312-1317)に、御上神社の元神職で堅田で紺屋を営んでいた善道が本願寺3世覚如に帰依して創建。 湖西の本願寺教団の拠点として発展。 3世住職の法住は蓮如に重用され、 1465年、本願寺が延暦寺衆徒に焼き討ちされた後、 1467年2月、高野安養寺から蓮如と本願寺御影を本福寺に迎え、翌年3月12日まで滞在した。 また本願寺焼き討ちの時、法住は1460年に蓮如から下付された十字名号を持って比叡山に登り、真宗の教義を説いたので、これを「登山名号」と呼ぶ。 1468年、延暦寺による堅田大責で焼失。堅田衆も沖島に避難した。町衆が戻ったのは1470年に延暦寺に礼金を収めた時だった。
1477年には近くに慈敬寺を建て本山直轄の御坊として本願寺に寄進した。 1491年12月7日焼失。 慈敬寺に入り教団支配の再編成を進める蓮如の子の蓮淳が、 本福寺の影響力を排除しようと5世明宗を3度にわたり勘気。 以後、本福寺の存在感は弱まったが、一向一揆や石山合戦でも本願寺を支えた。
江戸時代には西本願寺につき
1611年3月24日、定衆となり、 1634年11月7日、一家衆(内陣)に列した。
11世明式が松尾芭蕉に師事して千那と号し俳人として活躍した。 1954年12月8日、本堂と蓮如廟を焼失。1972年4月に再建。
組織
歴代住職
- 1善道()<>:三上氏。御上神社の神職だったが、別の神職を殺害して逃亡。流浪の後、堅田に来て紺屋を営んでいたところ、覚如に帰依する。
- 2覚念(1278-?)<>:禅宗に帰依。1361年生まれとも。
- 3法住(1397-1479)<>:1413年、仏光寺に参詣。1416年、本願寺に帰参したがこの時仲介役となった本弘寺の末寺要求を拒否したため、門主拝謁がしばらく叶わなくなる。門主が蓮如になると一転、信頼を得て近江の重鎮として重用された。本願寺御影が最初に遷されたのはこの時代である。1477年には慈敬寺を創建し、堅田御坊として本願寺に寄進した。
- 4明顕(1445-1509)<>:
- 5明宗(1469-1540)<>:明顕の養子。河野宣高の子。湖西門徒支配の再編成を進めたい蓮淳と対立し、3度にわたり勘気を蒙る。以後、近江の指導的地位を弱める。
- 6明誓(1491-1560)<>:
- 7明順(1522-1581)<>:石山合戦で活躍。
- 8明乗(1558-1621)<>:1611年、西本願寺の定衆となる。
- 9明芸(1600-1653)<>:1634年、一家衆(内陣)となる。
- 10明賢(1631-1692)<>:
- 11明式(1651-1723)<>:院家となる。芭蕉の門人となる。千那と号す。感応院。著書に『白馬蹄』『白馬紀行』。
- 12明因(1675-1747)<>:明式の養子。芭蕉の門人。角上と号す。著書に『白馬紀行口耳』。
- 13明観()<>:号は角三。
- 14明随(1727-1793)<>:号は未角。真覚院。
- 15明曜(1754-1807)<>:平田明照寺亮淳の子。号は千羅。
- 16
- 17
- 18
- 19三上明温
- 20三上明暢
- 21三上明淳
- 22三上明祥
『本福寺次第草案』[1]
資料
史料
- 『本福寺跡書』
- 『明宗日記』
- 『本福寺由来記』
- 『本福寺門徒記』
- 『本福寺次第草案』[2]
文献
- 千葉乗隆編『本福寺史』
- 千葉乗隆編『本福寺旧記』