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歴史も教義も制度も無視して、用語も正しく理解しようとせず、「宗教専門新聞」を称しているのは恥ずかしい。ましてや記者の暴力や差別発言や脅迫的発言は論外。
「殺してやる」「お前の脳みそは腐っている」「お前は強姦殺人犯のようだ」。これが「葬式をしない」代わりの21世紀劈頭の「ともいき」の宣言なのか。
「読売新聞では暴力は当たり前だ」(真偽は不明)と何度言われても、本願にはほど遠い。「俺は神戸で人が燃えているのを見てきたからな」と自慢するのが「一流のジャーナリスト」か。
宗教団体・大学・メディアは「平和憲法を守れ」と主張する以前に、自ら刑法を侵さず、労働基準法を守るべきだ。「愚者の自覚」「智者のふるまいをしない」を言い訳とせず、人権同和活動を閉鎖せず、総本山警備員の集団リンチ傷害事件の隠蔽をやめるべきだ。国民の税金も使われた上で、血が流れた事件を曖昧にして落慶法要を行うつもりか。「お前を人権侵害で訴える」というなら早く訴えたらいかがか。
宗教界、言論界から暴力や差別が無くなるにはまだ無量年かかるのか。まあ無理か。

本願寺遷座旧跡

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2020年9月11日 (金)

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本願寺遷座旧跡

目次

概要

本願寺御影像の遷座旧跡を紹介する。

村上専精は『真宗全史』で本願寺御影像について次のように述べている。「されば本願寺の存在は宗祖の影像にありと謂ふべし、影像なければ本願寺あるべからず、影像あるが故に本願寺あるなり。故に本願寺の影像に対する観念は、我が皇室にありて賢所を奉戴し、真に生きたる皇祖として之を崇めたまへるより以上の精神を存す。是れ実に真宗本願寺の家風なり。[1]

このように、浄土真宗においては、親鸞自作の御影像が重要視され、信仰の中心として尊崇されてきた。本願寺とはまさにこの御影像を奉安するための寺院であった。本来、寺院とは仏のための施設であったが、浄土真宗に至っては、僧を祀る御影堂が主とされ、阿弥陀如来を祀る堂が従とされたのであった。度重なる他宗との抗争のなかで、各地を転々とした。

御影像は、セクト争いが激しい浄土真宗において、親鸞の血脈とともに本願寺勢力の正統性を示すものとして機能した。

(参考:同名寺院本願寺

歴史

中世1―本願寺の創始―

大谷本願寺の成立

親鸞は、1262年(弘長2年)11月28日、覚信尼に看取られて京都で死去した。荼毘に付されて、吉水の地に埋葬された(火葬地・墓地などについては親鸞墓廟を参照。)。

覚信尼は親鸞の娘で、小野宮禅念に嫁していた。 覚信尼は小野宮禅念の大谷の所有地に堂宇を建てた。1272年(文永9年)、遺骨を遷座し、御影像を奉安した。これが大谷本願寺の創始であった。現在の知恩院崇泰院の地である。1274年(文永11年)、禅念より土地を譲り受けて、さらに1277年(建治3年)に廟堂に寄進した。同時に留守職を親鸞の末裔に限定した。1283年(弘安6年)には覚恵を後継者に指名した。1308年(延慶1年)、覚恵の子、覚如が継承した。(法難史)

唯善の東遷

覚信尼の子、唯善は当初、仁和寺に入り、密教を修め、修験道を習ったが、のち祖父親鸞の教えに帰したという。招かれて大谷本願寺に住していたが、覚恵と土地を巡って争論となる。当時、大谷本願寺の後継者は覚如に決まっていたが、唯善はこれに取って代わろうとしたという。そのため、官裁を仰ぎ、1309年(延慶2年)7月に唯善は敗訴となった。このとき、唯善は大谷本願寺の遺骨と御影像を奪取し、関東に向かった。鎌倉常葉に堂を建て、御影像を奉安したところ、多くの参詣者が集まったという。いわゆる一向堂である。一説には「弥陀本願寺」と称したという[2]。 さらに幕府の庇護を受けて、1310年(延慶3年)下総葛飾郡関宿に西光院を創建(関宿常敬寺)。4世善栄、浄土真宗の本山となろうとして、本願寺の御影像の首を盗んだという。これに胴体を作って関宿西光院にて祀ったという。このとき本願寺善如は首を新造して修補したという。しかしこれは6世善鸞により本願寺蓮如に返還された。このとき蓮如より「本山を常に敬うべし」として常敬寺の名称を与えられたという。天正年間、10世了照のときに豊臣秀吉と北条家の合戦で焼失し、越後高田に遷したという(高田常敬寺)。旧跡も復興されて、二寺となった[3]


中世2―蓮如の時代―

寛正の法難

寛正6年(1465年)1月10日、比叡山の僧兵が来襲し、大谷本願寺を焼き討ちする[4]。突然のことだったので、防ぐことが出来なかった。蓮如は定法寺[5]に避難した[6]

ちなみに、寛正の法難の際、井上筑前なるものが蓮如に帰依して順知と称し、大谷の廟跡を守ったというが、江戸時代に西大谷に遷されるまで墓参の記録がないことから、実際には別地に遷されたのだろうという[7]

1465年(寛正6年)1月中旬に室町に遷座、今法寺[8]に遷座し、ついで壬生に遷座したという。ついで近江に脱出し、栗太郡の栗東・安養寺に遷座した。ここには70日ほど滞在したという。1467年(応仁1年)2月上旬、赤野井から船で対岸の唐崎の浜に渡り、堅田本福寺に遷座した[9]

あるいは1468年(応仁2年)3月の堅田大責を受けて、同年初秋に再び赤野井の浜に遷り、金森に遷ったともいう。金森御坊善立寺である。11月の報恩講が終わって、ほどなくして堅田に戻ったという[10]

1469年(文明1年)1月9日、延暦寺が堅田を攻めることが決められたという情報を察知したことから、避難させることなった。道覚の手引きで、蓮如は御影像を奉じて、2月13日に堅田から船で大津に移ったという[11]。大津では道覚の屋敷に堂宇を新造し、ここに奉安したという。一説にはこれが現在の外戸本福寺とされる。

さらに道覚は、比叡山と対立する三井寺の万徳院の協力を得て、近松に御坊を建てて顕証寺とした[12]。1470年(文明2年)のことという[13]。1471年(文明3年)4月、蓮如は顕証寺を蓮淳に預け、北陸地方各地を巡教に向かったが、御影像は山科本願寺の造営までここにあった。

あるいは近松遷座が順調に進まず、近江国蒲生郡日野の蒲生西明寺[14]に一時、奉安されたという説もある[15]

山科本願寺の成立

1477年(文明9年)11月29日、出口御坊にいた蓮如に、金森の善従が来て山城国山科野村が本寺造営の地にふさわしいと上申した。これが山科本願寺の濫觴である[16]。土地は海老名氏より譲り受け、金宝寺教俊に比叡山と交渉させてその造営を認めさせた。1480年(文明12年)2月3日に起工して10月に竣工した[17]。11月18日、顕証寺より山科に像を遷座した(山科本願寺)。1481年(文明13年)1月[18]、阿弥陀堂の造営に着手し、6月に竣工し、松林山本願寺と称したという[19]。1483年(文明15年)には六寺七坊が完成した。六寺七坊とは、一説には常楽寺、興正寺、金宝寺、本福寺、仏照寺、西方寺、性応寺、端坊、東坊、西坊、本光坊、空円坊、了性坊という[20]

近江から山科に御影像を遷座する際、参詣者が減少することを憂慮した三井寺宗徒が阻止の動きを見せたが、種々交渉して、代わりの御影像を納め、顕証寺の蓮淳を留めることで収拾を図ったという[21]。この御影像は現在、三井寺観音堂に祀られている。

1507年(永正4年)6月、細川政元が殺害されると戦乱を恐れて、実如は御影像を奉じて、堅田に避難した。24日、実如が堅田に遷り、翌日、御影像が堅田に遷ったという[22]。戻ったのは翌年11月とも翌々年ともいう[23]。 戦乱が慢性的に起こっていた当時、この事件で特に避難せざるを得なかったのは、本願寺と細川政元が近い関係にあったため、襲撃される恐れを考慮したためではないかと推測されている[24]。 1511年(永正8年)11月、親鸞250回忌が行われたが、山科本願寺開創以来の盛儀だったという。

中世3―顕如・教如の時代―

天文の乱と石山本願寺

天文元年(1532年)8月24日、日蓮宗徒と六角定頼の連合軍に山科本願寺は破壊される。実従が御影像を奉安して脱出し、勧修寺村の五郎左衛門宿に滞在し、ついで醍醐に向かい、夜明けごろ、醍醐寺報恩院に到着した[25]。報恩院には本願寺家縁戚の源雅がいた。9月13日、実従より五郎左衛門に託され、宇治田原に遷座した[26]。どこに避難したのか、詳しい位置は記録に残されていない。

翌年7月24日、実従は御影像を奉じて宇治を離れ、翌日石山に到着し、遷座させた[27]。11月21日に本堂の右脇段に奉安された[28]。これより先、1496年(明応5年)、蓮如は隠退して実如に譲り、自らの隠棲の地を求めた。これがのちに石山本願寺となる御坊の始まりである。その建立にあたっては様々な奇瑞があったという。本願寺はここに拠点を移し、石山本願寺とした。

石山合戦の敗退

1565年(永禄8年)織田信長、足利義昭を奉じて入京。中国地方への進出を伺う信長は1570年(元亀1年)1月、石山本願寺の地を望み、他地への移転を要求した。本願寺はこれを拒絶し、織田信長との対立は決定的となった。同年9月12日、織田軍と戦闘になり、石山合戦が開始された。 合戦は十年に及んだが、天正8年(1581年)閏3月5日、ついに本願寺、顕如・教如は織田信長と和睦した。4月9日、顕如は石山本願寺を引き払い、御影像を奉じて鷺森に遷った(鷺森本願寺)。 このとき、教如は父顕如に逆らって、一旦認めた和睦を反故として籠城戦を主張した。これによって本願寺勢力が内部で二分され、のちの東西分裂のきっかけとなったのは有名な逸話である。教如は顕如の退城にあたって、御影像の残留を求めた。「骨肉の御影」は断念したものの、「黒箱の御影」(唯善が持ち去った御影像の首を、蓮如時代に本願寺に返還されたものという。)を所望した。ところが、別物を与えられて教如は大いに憤慨したという。8月2日に至って、ようやく教如は退去した。同日、石山本願寺は焼失したという[29]。 1582年(天正10年)6月2日、本能寺の変により織田信長が滅亡する。1583年(天正11年)7月に顕如が貝塚に移った(貝塚本願寺)。のち願泉寺である。 天正13年(1585年)5月、豊臣秀吉の寄進で、天満に移転。同年8月に阿弥陀堂創建。翌年8月に御影堂創建[30]天満本願寺である。 さらに豊臣秀吉は1589年(天正17年)12月1日、大谷の旧地を寄進し、そして天正19年(1591年)閏1月5日、豊臣秀吉の寄進で京都に土地を与えられる。8月5日起工して、1592年(文禄1年)11月、御影堂が竣工。御影像が遷座し、本尊も本堂がまだ完成していないため御影堂に合祀される(西本願寺[31]。ちなみに本願寺移転によってその地にあった時宗金光寺市比売神社は追い出される形で遷座した。


近世―二つの本願寺―

大谷本願寺

京都本願寺(のちの西本願寺)の造営が行われた1592年(文禄1年)11月24日、顕如が死去。ここで教如と准如の間に相続問題が起きる。1593年(文禄2年)、豊臣秀吉は准如をもって後継者と定めた。

隠居を余儀なくされた教如は1595年(文禄4年)、摂津大坂の渡辺に御坊を建て、「大谷本願寺」と称した。これは渡辺御坊とも呼ばれた。この場所は、現在の大阪市北区天満あたりだと考えられ、石山本願寺の跡地であったともいう。一説には現在の大阪市中央区道修町1丁目にあったともいうが、根拠は不明である。1598年(慶長3年)、豊臣秀吉による大阪城拡張のため、現在地に移転した。これがのちの難波別院である。南御堂裏御堂などと呼ばれ、1602年(慶長7年)の東本願寺成立までの教如勢力の拠点となり、その後は大阪における東本願寺勢力の拠点となった。「大谷本願寺」と称したことは当時の渡辺御坊の梵鐘(1596年(慶長1年)鋳造)に刻まれており、確かである。隠退を不服とし、自らの正統性を自認していた教如の考えの表れだろう。しかし、本願寺継承の正統性を示すレガリアといえる「骨肉の御影」は天満本願寺に奉安されていたのであった。

妙安寺の御影像と東本願寺の成立

徳川家康は、一向一揆に苦しめられた経験から、本願寺勢力の結束を弱めるため、内部対立を温存させる方針を取った。徳川家康は豊臣秀吉によって強制的に隠退させられた教如を擁立し、1602年(慶長7年)2月に教如に寺地を寄進し、3月9日、教如を復職させた[32]。そして西本願寺に対応するかたちで寺院を創建した[33]。これが東本願寺である。1641年(寛永18年)6月20日、寺域を拡張して現在の規模になったという[34]

しかし、「骨肉の御影」を祀る西本願寺と並ぶ存在にするには、その正統性を示す御影像が必要であった。そこで前橋妙安寺に伝わる親鸞自作とされる御影像を、1603年(慶長8年)に東本願寺に迎え、御影堂を建立した。すなわち3月に入洛、8月に御影堂が竣工したとされる[35] ここにおいて、教如派の正統性が確保され、ようやく東本願寺は成立したといえる。

妙安寺について述べる。時代は親鸞の時代に遡る。

ある伝承[36]によると、藤原氏の一族であった中村頼国は無実の罪によって流されて、猿島一谷に住していた。1221年(承久3年)、稲田の親鸞を訪ねて、弟子となり成然と名乗った。1232年(貞永1年)、庵を建てて妙安寺とした。1235年(嘉禎1年)、親鸞が帰洛の際に片身として成然に自作の御影像を賜ったという。猿島妙安寺の縁起である。成然の墓は猿島妙安寺の近くにある。

また別の伝承[37]によると、成然の本名は、中村行実[38]といい、九条兼実の子とされる。一説には親鸞のいとこともいい、また親鸞の妻であった玉日姫[39]の兄にあたるともいう。稲田にいた親鸞を訪ねて、成然を名乗り、始め猿島に草庵を建てたというのは先の伝承と同じであるが、そののち親鸞と議して三村に寺院を遷したという。やはり親鸞上洛のときに自作の御影像を賜ったという。これが三村妙安寺である。

あるいは、三村にはもと聖徳太子創建の葛城寺があり荒廃していたが、成然が聖徳太子の託宣によって再興したという。

のち領主板倉周防守より寺領10石を与えられるが、領主の川越移封に伴い、御影像を奉じて川越に遷ったという。ここで将軍家の目に留まり、1603年(慶長8年)、東本願寺に遷されたという。板倉周防守は、厩橋(前橋)移封となり、川越妙安寺も前橋に遷った。これが前橋妙安寺である。

三村妙安寺と前橋妙安寺の間には争論があったらしい。三村の旧跡には願正寺という寺院が残されて、妙安寺の掛所とされた。しかし、三村の寺領について、両者の間で争論となり、1687年(貞享4年)に寺社奉行により判決が下り、三村よりの結果となった。寺領は願正寺のものとなり、妙安寺と改称し、独立した寺院となった。一方、前橋妙安寺は成然寺と改称させられた。享保年間には両寺とも妙安寺に復した。

御影像論争

江戸時代、両本願寺の御影像を巡って、論争が起こった[40]。東本願寺の僧侶らが、西本願寺の御影像について自作のものではないと述べ、東本願寺の御影像こそが自作の御影像であると論じたのであった。

西本願寺御影像は親鸞自作の御影像で、骨肉の影像であるという。1243年(寛元1年)71歳のときの自作の御影像に、死後、骨肉を混ぜた漆を塗ったものであるとされる。西本願寺では、これに勝る霊像はないとしている。

一方、東本願寺に祀る御影像は、上にも述べたように、元来、前橋妙安寺にあった御影像である。妙安寺は親鸞直弟の成然が、当時、稲田の草庵に在していた親鸞に乞いて授かった自作の御影像という。

しかし、東本願寺の御影像ことが本物の自作の御影像だと主張するものたちは、唯善事件をここで持ちだしたのであった。本願寺の御影像は唯善によって鎌倉に持ち出されたが、東本願寺の御影像こそ、この唯善が持ち去った真の御影像であり、西本願寺の御影像は奪取されたときに作られた模刻であるというのである。 この論によれば、唯善は大谷本願寺より御影像を持ち去り、鎌倉常葉に祀ったが、のち下総猿島に寺院を建立した時には、そのまま鎌倉に留めおいた。のち1616年(元和2年)、13世宣如が江戸よりの帰途、鎌倉常葉に立ち寄り、残された御影像を拝した。渇仰の念止みがたく本多正信後室を通して将軍に請願し、迎え入れたものであるという。これを常盤御影と称し、唯一の霊像であると主張した。 ただ、この論は東本願寺の一部の僧侶が一方的に主張したものであった。


旧跡一覧

当時の名称・通称 現在名・跡地名 期間 所在地 コメント
西1 大谷本願寺 崇泰院(浄土宗)> 1272(文永9)-1465(寛正6) 京都府京都市東山区林下町401
西2 定法寺 <京都定法寺町> 1465(寛正6) 京都府京都市東山区定法寺町
西3 室町 <京都室町> 1465(寛正6) 京都府京都市
西4 今法寺 <不詳> 1465(寛正6)ごろ 京都府京都市
西5 壬生 <京都壬生> 1465(寛正6)ごろ 京都府京都市中京区
西6 栗東・安養寺 鈎山安養寺(真宗大谷派) 1466(文正1)-1467(応仁1) 滋賀県栗東市安養寺6-5-10
西7 堅田本福寺 夕陽山本福寺(浄土真宗本願寺派) 1467(応仁1)-1468(応仁2) 滋賀県大津市本堅田1-22-30 堅田御坊
西8 善立寺 金園山善立寺(真宗大谷派) 1468(応仁2) 滋賀県守山市金森町753 金森御坊
西9 堅田本福寺 夕陽山本福寺(浄土真宗本願寺派) 1468(応仁2)-1469(文明1)
西10 外戸本福寺 夕陽山本福寺(浄土真宗本願寺派) 1469(文明1)-1470(文明2) 滋賀県大津市長等3-3-35
西11 蒲生西明寺 大慈山西明寺(臨済宗永源寺派) 1470(文明2)ごろ 滋賀県蒲生郡日野町西明寺1238
西12 顕証寺 本願寺近松別院 顕証寺(浄土真宗本願寺派) 1470(文明2)-1480(文明12) 滋賀県大津市札の辻9-26 近松御坊。
西13 山科本願寺 本願寺山科別院 聖水山舞楽寺(浄土真宗本願寺派)
真宗大谷派山科別院 長福寺(真宗大谷派)
1480(文明12)-1507(永正4) 京都府京都市山科区 山科御坊
西14 堅田本福寺 夕陽山本福寺(浄土真宗本願寺派) 1507(永正4)-1508(永正5) 滋賀県大津市本堅田1-22-30
西15 山科本願寺 本願寺山科別院 聖水山舞楽寺(浄土真宗本願寺派)
真宗大谷派山科別院 長福寺(真宗大谷派)
1508(永正5)-1532(天文1) 京都府京都市山科区
西16 醍醐寺報恩院 醍醐寺報恩院(真言宗醍醐派) 1532(天文1) 京都府京都市伏見区醍醐
西17 宇治田原 <宇治田原> 1532(天文1)-1533(天文2) 京都府綴喜郡宇治田原町
西18 石山本願寺 <大阪城> 1533(天文2)-1581(天正9) 大阪府大阪市中央区大阪城 石山御坊
西19 鷺森本願寺 本願寺鷺森別院(浄土真宗本願寺派) 1581(天正9)-1583(天正11) 和歌山県和歌山市鷺ノ森1 雑賀御坊
西20 貝塚本願寺 金凉山真教院願泉寺(浄土真宗本願寺派) 1583(天正11)-1585(天正13) 大阪府貝塚市中846 貝塚御坊
西21 天満本願寺 真宗大谷派天満別院(真宗大谷派)
<滝川公園>
<造幣局>
1585(天正13)-1591(天正19) 大阪府大阪市北区 天満御坊
西22 西本願寺 龍谷山本願寺(浄土真宗本願寺派) 1591(天正19)-現在 京都府京都市
東1 猿島妙安寺 一谷山妙安寺(真宗大谷派) 茨城県猿島郡境町一の谷498
東2 三村妙安寺 一谷山妙安寺(真宗大谷派) 茨城県坂東市みむら1793
東3 前橋妙安寺 一谷山妙安寺(真宗大谷派) 群馬県前橋市千代田町3-3-30
東4 東本願寺 真宗本廟(真宗大谷派) 京都府京都市下京区常葉町754
唯善1 一向堂 <一向堂> 神奈川県鎌倉市常盤
唯善2 関宿常敬寺 中戸山西光院常敬寺(浄土真宗本願寺派) 千葉県野田市中戸379
唯善3 高田常敬寺 中戸山西光院常敬寺(真宗大谷派) 新潟県上越市寺町2-7-28
難波1 大谷本願寺 <渡辺の地> 大阪府大阪市北区 渡辺御坊、大坂御坊
難波2 大谷本願寺 真宗大谷派難波別院(真宗大谷派) 大阪府大阪市中央区久太郎町4-1-11 南御堂、裏御堂

画像

資料

  • 佐々木月樵1910年(明治43年)『親鸞伝叢書』無我山房
  • 村上専精1916年(大正5年)『真宗全史』平午出版社
  • 上原芳太郎1934年(昭和9年)『本願寺法難史』東学社


  • 山田文昭「大谷本廟創立考」『山田文昭遺稿』[1]

脚注

  1. 『真宗全史』538頁
  2. 『築地本願寺新報』2005年1月号
  3. 常敬寺については「大谷遺跡録」の中戸山常敬寺の項目(『親鸞伝叢書』488頁)による。
  4. 「本福寺由緒紀」「堅田日記」「蓮如上人縁起」。『真宗全史』413頁。
  5. 青蓮院の院家。京都市定法寺町のあたりにあった。
  6. 「本福寺由緒紀」「堅田日記」「蓮如上人縁起」。『真宗全史』413頁。
  7. 『本願寺法難史』79
  8. 不詳。金宝寺とも。
  9. このあたり、「本福寺由来記」による。
  10. 「金森日記抜」
  11. 「本福寺由来記」「金森日記抜」
  12. 「本福寺跡書」
  13. 『真宗全史』415
  14. 臨済宗永源寺派。西明禅寺。近くの本通寺に、西明寺で蓮如が住していたという鳩摩羅庵が移築されている。
  15. 「叢林集冠註」
  16. 『真宗全史』431
  17. 『真宗全史』434頁
  18. 1482年(文明14年)2月ともいう。
  19. 『真宗全史』435頁
  20. 『真宗全史』435頁
  21. 「蓮如行状記」。『本願寺法難史』
  22. 「本福寺跡書」
  23. 「通紀」。『本願寺法難史』
  24. 『本願寺法難史』129
  25. 『本願寺法難史』141頁。「私心記」
  26. 『本願寺法難史』145頁
  27. 『本願寺法難史』149
  28. 同150頁
  29. このあたり、『本願寺法難史』
  30. このあたり、『本願寺法難史』
  31. このあたり、『真宗全史』488頁
  32. 1604年(慶長9年)8月には大僧正になる(『本願寺法難史』366頁に引く『東本願寺誌要』)。
  33. 『本願寺法難史』366頁に引く『東本願寺誌要』
  34. 『本願寺法難史』366頁に引く『東本願寺誌要』
  35. 『本願寺法難史』366頁に引く『東本願寺誌要』
  36. 猿島妙安寺ウェブサイト。
  37. 「大谷遺跡録」の前橋妙安寺の項(『親鸞伝叢書』510頁)。
  38. あるいは幸実
  39. 非実在説もある。
  40. 以下、「本願寺祖殿の影像論」『真宗全史』538頁による。
http://shinden.boo.jp/wiki/%E6%9C%AC%E9%A1%98%E5%AF%BA%E9%81%B7%E5%BA%A7%E6%97%A7%E8%B7%A1」より作成

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