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桓武天皇陵
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
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- | + | File:Kanmu-tenno-ryo_005.jpg|京阪丹波橋駅前にある道標 | |
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2020年11月12日 (木) 時点における版
歴史
古代には陵域内に伏見・報恩寺があった。 元禄の修陵では、谷口古墳(6世紀後半)に比定された(山田邦和「桓武天皇陵」『歴史検証天皇陵』)。1821年(文政4年)には、有栖川宮韻仁親王が尭覺を開山として桓武天皇の菩提を弔うために、谷口古墳の前に「浄蓮華院」を創建した。御所より建物を下賜され堂宇とし、比叡山の桓武天皇御影を祀った(ネット)。 文久の修陵においては、桓武天皇陵は定まらず、整備事業も行われなかった。ただ谷森善臣は、1865年(慶応1年)に『柏原山陵考』を著し、山城国紀伊郡堀内村三人屋敷の地が桓武天皇陵だと主張した(山田前掲)。これに基づき、1880年(明治13年)1月27日、この地を「桓武天皇柏原陵」に治定した(明治天皇紀)。 このほか、候補地としては、古御香宮の地が知られる。伏見古図に基づく説であり、当地は、大亀谷陵墓参考地となっている。しかし、この古図は江戸時代の偽作であるといわれる。
現在の比定地のある桃山丘陵の可能性が高い。しかし、豊臣秀吉による伏見城築城や、近代の伏見桃山陵の造営で、大きく改変されており、正確な位置の特定は困難となっている。