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西悲田院
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
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1473年(文明5年)5月22日、細川勝元の葬儀が悲田院内の地蔵院で行われた。 | 1473年(文明5年)5月22日、細川勝元の葬儀が悲田院内の地蔵院で行われた。 | ||
1479年(文明11年)8月12日、放火で悲田院仏殿や周辺の家屋が焼失。 | 1479年(文明11年)8月12日、放火で悲田院仏殿や周辺の家屋が焼失。 | ||
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東西悲田院のどちらか不明だが、1546年(天文15年)11月、悲田院雑掌が祠堂銭の免税を訴えており、また1573年(天正1年)4月4日、[[織田信長]]の上京焼き討ちで、ケイガ院、悲田院、シンシエイの念仏堂、シバノ薬師が焼失した(フロイス日本史)。 | 東西悲田院のどちらか不明だが、1546年(天文15年)11月、悲田院雑掌が祠堂銭の免税を訴えており、また1573年(天正1年)4月4日、[[織田信長]]の上京焼き討ちで、ケイガ院、悲田院、シンシエイの念仏堂、シバノ薬師が焼失した(フロイス日本史)。 | ||
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1645年(正保2年)、泉涌寺境内に移転したという。 | 1645年(正保2年)、泉涌寺境内に移転したという。 | ||
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2021年3月2日 (火) 時点における版
西悲田院は平安京にあった悲田院。東悲田院と対になっていたという。泉涌寺悲田院の前身という。安居院悲田院、上悲田院とも呼ばれた。
歴史
当初は九条南の西端にあったとみられる。871年(貞観13年)閏8月28日の太政官符に「北限京南大路西末并悲田院南沼」とある。
842年(承和9年)10月14日、左右京職と東西悲田院に飢饉犠牲者の遺体5500体を焼却させた(『続日本後紀』)。 843年(承和10年)3月25日、東西悲田院の病者や貧窮者に義倉物を与えた(同)。
1273年(文永10年)とみられる文書(備後国長和荘領家地頭所務和与状)に「安居院悲田院」とあり、これが西悲田院の後身とみられる。 1308年(延慶1年)、無人如導が創建(再興?)したともいう。 1317年(文保1年)10月7日、伏見上皇35日忌に際して東悲田院・上悲田院(西悲田院)などで温室を布施。 1354年(正平9年/文和3年)頃、西悲田院は泉涌寺に末寺になったという。
1381年(弘和1年/永徳1年)11月10日、牛僧が京都市上京区扇町に悲田院を再建。 臨済宗義堂周信が棟札を書いた。
1471年(文明3年)、後花園天皇の葬儀が悲田院で行われた。現在も後花園天皇火葬塚が残る。 1473年(文明5年)5月22日、細川勝元の葬儀が悲田院内の地蔵院で行われた。 1479年(文明11年)8月12日、放火で悲田院仏殿や周辺の家屋が焼失。 1486年(文明18年)以降、悲田院住職を泉涌寺長老が兼務することとなる。
東西悲田院のどちらか不明だが、1546年(天文15年)11月、悲田院雑掌が祠堂銭の免税を訴えており、また1573年(天正1年)4月4日、織田信長の上京焼き討ちで、ケイガ院、悲田院、シンシエイの念仏堂、シバノ薬師が焼失した(フロイス日本史)。
1637年(寛永14年)の洛中絵図に大応寺と隣接して描かれている。 1645年(正保2年)、泉涌寺境内に移転したという。
(日本歴史地名大系)