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勝長寿院
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
2023年1月15日 (日) 時点におけるWikiSysopKARASUYAMA (トーク | 投稿記録)による版
勝長寿院(しょうちょうじゅいん)は、神奈川県鎌倉市雪ノ下(相模国鎌倉郡鎌倉)にあった源家ゆかりの寺院。本尊は阿弥陀如来。源頼朝が鎌倉に創建した最初の寺院で、父源義朝の菩提寺。源頼朝が鎌倉時代初期に造営した三大寺社(鶴岡八幡宮、永福寺、勝長寿院)の一つ。当初は真言宗だったようだが、のちに天台宗となり日光山満願寺座主光明院を兼務。関東祈祷所。跡地には石碑などが建つが、一帯は住宅地となっており、本格的な発掘調査は行われていない。大御堂。南御堂。山号は阿弥陀山。 (参考:同名寺院大御堂)
目次 |
歴史
- 1184年(元暦1年)11月26日:地曳始
- 1185年(文治1年)2月19日:本格的に造営開始
- 1185年(文治1年)9月3日:源義朝と鎌田政長の首を埋葬。京都から護送した。
- 1185年(文治1年)10月24日:落慶。本尊は奈良仏師成朝が、壁画は京都画家宅摩為久が手掛けた。以後、代々の将軍が年末に参詣。
- 1192年(建久3年):性我が初代別当に就任。
- 1219年(承久1年)1月27日:源実朝、暗殺。勝長寿院に埋葬される。法華堂を建立。
- 1224年(元仁1年)8月8日:良信が勝長寿院別当となり以後、山門僧が就くようになる。
- 1225年(嘉禄1年)7月11日:北条政子死去。勝長寿院に埋葬。法華堂を建立。
- 弁覚・尊家・源恵の頃から日光山主を兼務するようになる。その時期は諸説あるようだ。
- 室町時代:関東公方足利家が重視した。足利成氏が古河に退去して以降は衰退が進んだという。
- 1540年(天文9年)頃:このころまでは現存していたが江戸時代初期には廃絶していた。横須賀浄楽寺に寺号を移したという伝承もある。
- 1984年(昭和59年):「勝長寿院跡」碑建立。
伽藍
- 本堂:
- 弥勒堂:
- 五仏堂:本尊は五大尊。源実朝の供養のため建立。
- 新御堂:勝長寿院奥殿。北条政子が建立。
- 御所:北条政子が造営。
- 持仏堂:御所に付属。廊の御堂。源実朝の持仏を祀ったという。
- 三重塔:源実朝十三回忌で建立。
- 経蔵:
- 源義朝首塚:
- 鎌田政長首塚:
- 源実朝法華堂:
- 北条政子法華堂:
組織
勝長寿院別当
世数 | 名 | 生没年 | 在職年 | 略歴 |
---|---|---|---|---|
文覚 | 生没年不詳 | 真言宗。勝長寿院を創建。鎌倉・永福寺別当。 | ||
1 | 性我 | ?-1199 | 1192-? | 初代別当。源頼朝の護持僧。真言宗。鎌倉・永福寺別当を経て1192年(建久3年)勝長寿院別当。1199年(正治1年)以前に退任して上京。1199年(正治1年)3月29日死去。恵眼房。 |
2 | 定豪 | 1152-1238 | 1199-1220 | 真言宗。源延俊の子。1199年(正治1年)6月2日勝長寿院別当。1220年(承久2年)1月21日鶴岡八幡宮別当。 |
3 | 親慶 | 1168-1224 | 1220-1224 | 天台宗寺門派。中山忠親の子。1220年(承久2年)1月21日勝長寿院別当。1224年(元仁1年)7月24日死去。56歳。 |
4 | 良信 | 1173-1253 | 1224-1253 | 幕府護持僧。藤原長信の子。忠快の弟子。1224年(元仁1年)平泉総別当。同年8月8日、勝長寿院別当。1253年(建長5年)5月23日死去。81歳。大蔵卿法印。以後、別当職は山門僧で独占される。 |
5 | 最信 | 生没年不詳 | 1253-? | 足利家出身。足利義氏の子。1253年(建長5年)5月16日勝長寿院別当。 |
弁覚 | 生没年不詳 | 不詳 | 日光山座主23世。日光山中興。関政家の子。隆宣の弟。鶴岡八幡宮供僧。1209年(承元3年)座主就任(1210年(承元4年)とも)。勝長寿院別当を兼務。1240年(仁治1年)日光山光明院を創建。熊野や吉野で修行した山伏という。和田合戦に参戦。日光に熊野修験を伝えたという。1251年(建長3年)8月4日死去。但馬法印。(なし) | |
尊家 | ?-1273 | 不詳 | 日光山座主25世。藤原顕家の子。本覚院門跡となる。鎌倉幕府執権の北条時頼の招きで1253年(建長5年)10月、日光山座主に就任し、鎌倉の勝長寿院別当も兼務(勝長寿院別当には付かなかった説もある[1])。竹林坊静厳の弟子。1273年(文永10年)11月12日死去。(なし) | |
源恵 | 1244-1307 | ?-1307 | 日光山座主26世。天台宗。天台座主。九条家出身。4代将軍九条頼経の子。1244年(寛元2年)生。尊家と本覚院門跡最源の弟子。1274年(文永11年)日光山座主。勝長寿院別当・本覚院門跡を兼務。1307年(徳治2年)10月20日死去。64歳。 | |
仁澄法親王 | ?-1318 | 1307-? | 日光山座主27世。天台宗。天台座主。7代将軍惟康親王の王子。源恵の弟子。1307年(徳治2年)勝長寿院別当。1308年(延慶1年)4月、日光山座主。本覚院門跡を兼務。1316年(正和5年)6月29日天台座主。 | |
道潤 | 1266-1329 | ?-1329 | 日光山座主29世。天台座主。二条家出身。関白左大臣二条良実の子。1266年(文永3年)生。源恵の弟子。1323年(元亨3年)日光山座主。在職8年という。1302年(乾元1年)5月、天台座主。1329年(元徳1年)死去。竹林院(比叡山?)・本覚院門跡でもある。 | |
聖慧 | 生没年不詳 | 1330-1333 | 日光山座主30世。天台座主。7代将軍惟康親王の王子。仁澄の弟か。久明親王猶子。仁慧法親王の弟子。親源の弟子とも。道瑜に法を学ぶ。1330年(元徳2年)日光山座主・勝長寿院別当。本覚院を兼務。鎌倉幕府に親しい立場だったため幕府の崩壊と共に1333年(元弘3年/正慶2年)勝長寿院別当退任。1334年(建武1年)日光山座主を退任。後醍醐天皇の吉野潜幸を受け、1337年(延元2年/建武4年)日光山座主に再任。1338年(延元3年/暦応1年)天台座主。聖恵。 | |
守慧法親王 | ?-1378 | 不詳 | 日光山座主32世。9代将軍守邦親王の王子。聖慧の弟子。1346年(貞和2年)日光山座主。33年在職。本覚院門跡・深大寺別当を兼務。1378年(永和4年)2月9日死去。守恵。 | |
満守 | 生没年不詳 | 不詳 | 日光山座主35世。鎌倉公方2代足利氏満の子。足利義満の猶子。俗名を満秀もしくは満季という。聖如の弟子。1385年(元中2年/至徳2年)日光山座主。在職6年。本覚院門跡・勝長寿院別当を兼務。 | |
慈玄 | 生没年不詳 | 不詳 | 日光山座主36世。一条家出身。関白一条経嗣の子。4代将軍足利義持の猶子。満守の弟子。1390年(元中7年/明徳1年)日光山座主。本覚院門跡・勝長寿院別当を兼務。持玄とも。 | |
昌潤 | 生没年不詳 | 不詳 | 足利家出身。関東公方足利持氏の子。1455年(康正1年)日光山権別当。鎌倉勝長寿院別当を兼務。鎌倉を出奔。成潤とも。 |
両法華堂別当
源実朝法華堂と北条政子法華堂を管轄した。
- 良助()<1417->:1417年6月19日別当。
- 澄助()<>: