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谷山護国神社
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
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谷山護国神社は鹿児島県鹿児島市下福元町(薩摩国谿山郡)にある招魂社。慈眼寺東公園。官祭招魂社。指定外護国神社。谷山招魂社。鹿児島藩の官祭招魂社と官修墳墓も参照。
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祭神
1955年(昭和30年)11月23日時点で1546柱。そのうち戊辰戦争12柱、西南戦争13柱、日清戦争16柱、日露戦争45柱、他2柱
官祭祭神
1919年(大正8年)6月「官祭谷山招魂社人名由緒等」[1]に次のようにある。官祭祭神と推定。ただし『靖国神社誌』[2]には祭神数2柱とある。
- 平山直左衛門武揚:1868年(明治1年)7月25日長岡城の戦いで負傷し8月18日死去。37歳。戊辰戦役記念碑に記名。個別祭祀のための書軸が残されているという[3]。高田官修墳墓。鹿児島藩招魂社官祭祭神。
- 山下正右衛門兼善:1868年(明治1年)8月2日、曲淵村の戦いで負傷し8月13日死去。28歳。戊辰戦役記念碑に記名。鹿児島藩招魂社官祭祭神。柏崎招魂所に埋葬され、高田官修墳墓に改葬か。
- 伊地知彦治:1868年(明治1年)8月2日、曲淵村の戦いで戦死。20歳。戊辰戦役記念碑に記名。鹿児島藩招魂社官祭祭神。船岡山官軍墓地に墓碑。新潟官修墳墓の合葬墓に名前あり。伊地知彦二。
- 松田英之助為美:1868年(明治1年)7月28日、箇場村の戦いで負傷し8月10日死去。22歳。戊辰戦役記念碑に記名。高田官修墳墓。鹿児島藩招魂社官祭祭神。
- 隈元仙太郎:1868年(明治1年)9月、村山郡島村で戦死。享年不明。戊辰戦役記念碑になし。鹿児島藩山形官修墳墓に名前あり。鹿児島藩招魂社・山形招魂社官祭祭神。
- 鬼丸甚右衛門:1868年(明治1年)5月11日、函館桔梗野で戦死。32歳。戊辰戦役記念碑になし。函館官修墳墓と福山官修墳墓の鹿児島藩合葬墓に名前あり。鹿児島藩招魂社官祭祭神。
- 島田市次郎:1868年(明治1年)3月25日、陸奥桑ケ崎で戦死。23歳。戊辰戦役記念碑になし。鹿児島藩招魂社官祭祭神。柳町官修墳墓に墓があったが現在、所在は不明。福山官修墳墓の鹿児島藩合葬墓に名前あり。
- 安楽金太郎:1868年(明治1年)9月16日、関川の戦いで負傷し11月29日死去。21歳。戊辰戦役記念碑になし。新潟官修墳墓の合葬墓に名前あり。鹿児島藩招魂社官祭祭神。
- 山下惣右衛門房泰:関口真心流師範。1867年(慶応3年)12月25日、江戸藩邸焼討事件で戦死。享年不詳。笠木櫓山に墓碑がある。
他に田中藤左衛門国俊が出羽で戦死している[4]。
歴史
- 1871年(明治4年)2月8日:西村正辰ほか18人が上福元の常楽寺境内に小社を創建。『靖国神社誌』[5]には1871年(明治4年)10月とある。
- 1883年(明治16年)11月8日:県内9社と共に官祭招魂社となる。『鹿児島県史』[6]では10月30日とある。
- 1886年(明治19年)2月23日:稲荷山(現在の慈眼寺公園内)に遷座。
- 1913年(大正2年)11月28日:「官祭谷山招魂社」と称す[7]。
- 1914年(大正3年)5月:戊辰戦役記念碑を建立。
- 1939年(昭和14年)4月20日:村社谷山護国神社に昇格改称。神饌幣帛料を供進。
- 1946年(昭和21年)2月2日:谷山頌徳神社と改称。
- 1948年(昭和23年)1月23日:谷山護国神社と改称。
- 1951年(昭和26年)12月10日:遺族会結成。
- 1952年(昭和27年)12月20日:奉賛会結成。
- 1955年(昭和30年)8月23日:現在地に社殿を新築。元陸軍省軍馬補充部育成所。
- 1955年(昭和30年)11月23日:新社殿に遷座。
- 1963年(昭和38年)11月23日:鳥居建立。
- 1965年(昭和40年)11月23日:「安らぎの塔」建立
- 1966年(昭和41年)11月:敷地を谷山市と交換。登記完了。
(『谷山市誌』)
境内
- 社殿
- 戊辰戦役記念碑
- 日清戦役記念碑
- 戦死人名碑:日露戦争
- 日露戦役記念碑
- 安らぎの塔:設計制作は中村晋也。塔の下に霊石一千余個を埋納している。
- 谷山護国神社移転新築記念碑