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函館官修墳墓
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2024年8月24日 (土)
函館官修墳墓は、北海道函館市の函館護国神社にある官軍墓地。官修墳墓。59基の墓碑が現存している。近隣には函館海軍墓地がある。1943年(昭和18年)7月17日に改修。かつては東口の下にあったが、現在は神社境内の東側にある。
市立函館博物館の調査によると、個人墓56基(御親兵6基、弘前藩18、福山藩16、岡山藩(備州藩)1、津藩(伊州藩)1、大野藩11、箱館在住隊1、水夫1、銘文不明1)が3列に並び、その後ろに海軍墓碑1基、鹿児島藩墓碑1基、松前藩個人墓1基がある(本文と一覧表で齟齬があるが、一覧表に基づく)。
目次 |
歴史
- 1869年(明治2年)5月11日:箱館戦争の戦闘が終了。
- 1869年(明治2年)5月21日:大森浜で招魂祭
- 1869年(明治2年)5月25日:スパイとして旧幕府軍に潜入し、山背泊で斬首された斎藤順三郎の遺族に香華料100両を賜う[1]。
- 1869年(明治2年)8月:上磯官修墳墓から御親兵4人を改葬[2]。
- 1869年(明治2年)9月5日:函館山の東麓で招魂祭。現在の函館護国神社の地。招魂場碑を建立。
- 1876年(明治9年)7月17日、明治天皇の東北巡幸に際して函館招魂社と官修墳墓を合わせ幣帛料25円を下賜[3]。この頃には墓地が成立していたとみられる。「招魂社の東口から公園へ下りる道路の山手側」にあった[4]。
- 1913年(大正2年)6月:桃中軒雲右衛門が七面山海軍墓地と税務署脇の墓地の整備を発起か[5]。
- 1914年(大正3年)8月:税務署脇の官軍戦死者墓地について管理者の三吉神社の稲川氏が税務署に土地の交換を提案[6]。
- 1917年(大正6年)5月:招魂社右側の陸軍用地に移転?[7]。監守の稲川菊蔵が尽力したという。桃中軒雲右衛門が1500円を寄付。
- 1920年(大正9年)2月:裁判所裏門から税務署(汐見中学校)あたりの3カ所40基あまりを、招魂社境内の右手の松林内に移転。
- 1920年(大正9年)8月17日:招魂社脇への改葬作業の第1回として旧鹿児島藩分を移す[8]。
- 1920年(大正9年)9月2日:旧鹿児島藩10人の改葬式[9]。拝殿右側200坪[10]。改葬委員長は横山伯爵代理佐土原中佐。
- 1921年(大正10年)頃:山背泊官修墳墓4人4基を改装[11]。統計表が1921年(大正10年)で北海道の官修墳墓数が1減少。
- 1921年(大正10年)4月:招魂社脇への改葬を始めるという[12]。
- 1924年(大正13年)5月:税務署下の墳墓を前年から招魂社境内に移転しつつあり、残っている14基も管理人の松前神社社掌の稲川菊造の監督のもと工事を進めている。14基のうち葛原定吉、朝華幸之助など巨大な4基は破断して埋設したとされ問題になる。土地は私有地として売却。[13]
- 1925年(大正14年)5月:墓碑埋設問題について稲川は埋めたものはなく全て招魂社横に移したと声明。[14]
- 1930年(昭和5年)8月:松田昇という人物が、招魂社横の石段から官軍墓碑16基を発見。[15]
- 1930年(昭和5年)11月20日:8月に見つかった官軍墓碑を境内に移し、合祀式。[16]
- 1940年(昭和15年)3月4日:官修墳墓59基を護国神社右側に移転を決定[17]。
- 1940年(昭和15年)7月29日:改修奉告祭[18]。
- 1942年(昭和17年)10月12日:(函館護国神社の社殿造営、遷座祭)
- 1943年(昭和18年)7月17日:改修落成祭[19]
- 1944年(昭和19年)8月17日:官修墳墓祭典を斎行。134柱を祀る。次年から中止。[20]
- 1952年(昭和27年)7月18日:官修墳墓の慰霊祭を7年ぶりに斎行[21]。
墓碑一覧
個人墓
所属によって墓碑の形状が異なる。建立は各藩が主体となったのだろう
整理番号 | 所属 | 名前 | 備考 |
---|---|---|---|
1 | 津藩 | 高島蔵重 | |
2 | 福山藩 | 河合要之助 | 1868年(明治1年)10月24日、大野村で戦死。大円寺神山官修墳墓に墓碑。 |
3 | 福山藩 | 内藤金三郎 | 光明寺大野官修墳墓に墓碑。 |
4 | 福山藩 | 松本喜多治 | 南大野官修墳墓に墓碑。 |
5 | 福山藩 | 梅田小太郎 | 光明寺大野官修墳墓に墓碑。 |
6 | 福山藩 | 柳沢友之助 | 光明寺大野官修墳墓に墓碑。 |
7 | 福山藩 | 中村辰之助 | |
8 | 福山藩 | 古川善左衛門 | 峠下官修墳墓にも墓 |
9 | 福山藩 | 中木初右衛門 | |
10 | 福山藩 | 佐藤定次郎 | |
11 | 福山藩 | 原好之助 | |
12 | 弘前藩 | 定吉 | 鹿児島藩碑にも名前。弘前招魂社官祭祭神。 |
13 | 弘前藩 | 安之助 | 鹿児島藩碑にも名前。二股口官修墳墓。弘前招魂社官祭祭神。 |
14 | 弘前藩 | 長之助 | 峠下官修墳墓にも墓。弘前招魂社官祭祭神。本間長之助。 |
15 | 弘前藩 | 三浦銀弥 | 弘前招魂社官祭祭神。 |
16 | 弘前藩 | 石岡孫弥 | 宝琳寺七飯官修墳墓に墓碑。弘前招魂社官祭祭神。 |
17 | 弘前藩 | 須藤万之助 | 有川官修墳墓にも墓。弘前招魂社官祭祭神。 |
18 | 弘前藩 | 金寅太郎 | 峠下官修墳墓にも墓。弘前招魂社官祭祭神。久法。 |
19 | 弘前藩 | 坂本友弥 | 有川官修墳墓にも墓。弘前招魂社官祭祭神。 |
20 | 弘前藩 | 高杉左膳 | 有川官修墳墓にも墓。弘前招魂社官祭祭神。 |
21 | 弘前藩 | 葛西文三郎 | 宝琳寺七飯官修墳墓にも墓。弘前招魂社官祭祭神。清生。 |
22 | 弘前藩 | 高杉権六郎 | 有川官修墳墓にも墓。弘前招魂社官祭祭神。 |
23 | 弘前藩 | 工藤末吉 | 有川官修墳墓にも墓。弘前招魂社官祭祭神。 |
24 | 弘前藩 | 竹中範平 | 弘前招魂社官祭祭神。 |
25 | 弘前藩 | 若林栄八 | 有川官修墳墓にも墓。弘前招魂社官祭祭神。 |
26 | 弘前藩 | 斉藤東八 | 有川官修墳墓にも墓。弘前招魂社官祭祭神。 |
27 | 弘前藩 | 諏訪久吉 | 有川官修墳墓にも墓。弘前招魂社官祭祭神。 |
28 | 弘前藩 | 佐藤純吉 | 有川官修墳墓にも墓。弘前招魂社官祭祭神。 |
29 | 弘前藩 | 中田勝之丞 | 有川官修墳墓にも墓。弘前招魂社官祭祭神。 |
30 | 御親兵 | 塩見謹弥 | |
31 | 御親兵 | 朝孝之輔 | |
32 | 御親兵 | 宗田直次郎 | |
33 | 御親兵 | 藤村隼人 | |
34 | 御親兵 | 樽沢信之輔 | |
35 | 御親兵 | 望月市太郎 | |
36 | 箱館在住隊 | 斉藤順三郎 | |
37 | 岡山藩 | 野崎栄次郎 | |
38 | 大野藩 | 広木治左衛門 | 福井県大野招魂社祭神。 |
39 | 大野藩 | 渡辺忠蔵 | 大野招魂社祭神。 |
40 | 大野藩 | 金子庫次郎 | 大野招魂社祭神。光明寺大野官修墳墓に墓碑。 |
41 | 大野藩 | 吉田留五郎 | 大野招魂社祭神。 |
42 | 大野藩 | 高見政雄 | 大野招魂社祭神。 |
43 | 大野藩 | 岡鍛 | 大野招魂社祭神。檜山護国神社祭神。江差官修墳墓に埋葬。 |
44 | 大野藩 | 長瀬喜和馬 | 大野招魂社祭神。 |
45 | 大野藩 | 寺田竹次郎 | 大野招魂社祭神。 |
46 | 大野藩 | 三宅友七 | 大野招魂社祭神。光明寺大野官修墳墓に墓碑。 |
47 | 大野藩 | 和田実之助 | 大野招魂社祭神。 |
48 | 大野藩 | 山本太三郎 | 大野招魂社祭神。 |
49 | 水夫 | 寅吉 | 海軍碑にも名前。函館海軍墓地にも墓 |
50 | 福山藩 | 真野録三 | 光明寺大野官修墳墓に墓碑。 |
51 | 福山藩 | 千賀猪三郎 | 南大野官修墳墓にも墓 |
52 | 福山藩 | 河村秀三郎 | |
53 | 福山藩 | 橘高助五郎 | 宝琳寺七飯官修墳墓にも墓。 |
54 | 福山藩 | 赤松岩五郎 | 宝琳寺七飯官修墳墓にも墓。 |
55 | 福山藩 | 丸内九蔵 | 実行寺にも墓 |
56 | (不明) | (不明) | |
57 | 松前藩 | 森谷弥助 | 福山官修墳墓にも墓(?) |
- 典拠:「「箱館戦争関係墓碑」調査について」
- 番号も同資料による
海軍墓碑
正面に「明治戊辰己巳海軍戦死者弔碑」とあり、甲鉄艦5人、朝陽艦60人、春日艦5人、飛龍艦1人の名が刻まれている。
鹿児島藩墓碑
1915年(大正4年)11月合葬。正面に「戊辰薩藩戦死者墓」とあり、佐藤安之助、花田定吉、田中泰蔵、恒吉休右衛門、鬼丸甚右衛門の5人の名(他に破損のため判読不明の部分がある)が記されている。全国各地にある鹿児島藩(薩摩藩)の墓碑と共通する形状を持つ(鹿児島藩相国寺墓地)。鹿児島藩の官祭招魂社と官修墳墓も参照。
- 佐藤安之助:夫卒。陸奥国津軽郡田村出身。1869年(明治2年)2月24日函館渡村二俣で戦死。個人墓13番。二股口官修墳墓。
- 花田定吉:夫卒。陸奥国津軽郡葛原村出身。1869年(明治2年)5月3日、函館大川村で戦死。個人墓12番。
- 田中泰蔵:二番隊戦兵。1869年(明治2年)5月7日、函館で戦死。20歳。
- 恒吉休右衛門:三番隊長。1869年(明治2年)5月11日函館桔梗野で戦死。24歳。
- 鬼丸甚右衛門:三番隊戦兵。1869年(明治2年)5月11日函館石川郷で戦死。32歳。
以下1920年(大正9年)改葬か[22]
- 和田彦兵衛:春日鑑。1869年(明治2年)5月11日戦死。函館海軍墓地の名簿に掲載。墓碑も海軍墓地に現存。秋清。
- 村山貞助:春日鑑。鹿児島。1869年(明治2年)5月11日戦死。函館海軍墓地の名簿に掲載。
- 三迫宗太郎:春日鑑。鹿児島。1869年(明治2年)5月11日戦死。函館海軍墓地の名簿に掲載。
- 上野太郎:春日鑑。鹿児島。1869年(明治2年)5月11日戦死。函館海軍墓地の名簿に掲載。
- 前田嘉七:春日鑑。鹿児島。1869年(明治2年)5月11日戦死。函館海軍墓地の名簿に掲載。前田嘉七郎利金。
画像
参考
|
資料
- 『函館市史デジタル版通説編』第3巻第5編「「大函館」その光と影」[24]
- 保科智治1997「「箱館戦争関係墓碑」調査について」『市立函館博物館研究紀要』7[25]
- 能戸庄平2003/6/11「函館市の史跡めぐり西部方面」[26]
- 神山茂1954「官修墳墓」『郷土昔語』函館郷土文化会[27]
- ウェブサイト『戊辰掃苔録』「函館護国神社」[28][29]
- ウェブサイト『戊辰掃苔録』「函館護国神社・海軍戦死者」[30][31]
- ウェブサイト『桜花の絆』「官修墳墓(新政府軍の墓)(函館市)」[32][33]
- 1916年官報:整備資金寄付者を表彰[36]