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歴史も教義も制度も無視して、用語も正しく理解しようとせず、「宗教専門新聞」を称しているのは恥ずかしい。ましてや記者の暴力や差別発言や脅迫的発言は論外。
「殺してやる」「お前の脳みそは腐っている」「お前は強姦殺人犯のようだ」。これが「葬式をしない」代わりの21世紀劈頭の「ともいき」の宣言なのか。
「読売新聞では暴力は当たり前だ」(真偽は不明)と何度言われても、本願にはほど遠い。「俺は神戸で人が燃えているのを見てきたからな」と自慢するのが「一流のジャーナリスト」か。
宗教団体・大学・メディアは「平和憲法を守れ」と主張する以前に、自ら刑法を侵さず、労働基準法を守るべきだ。「愚者の自覚」「智者のふるまいをしない」を言い訳とせず、人権同和活動を閉鎖せず、総本山警備員の集団リンチ傷害事件の隠蔽をやめるべきだ。国民の税金も使われた上で、血が流れた事件を曖昧にして落慶法要を行うつもりか。「お前を人権侵害で訴える」というなら早く訴えたらいかがか。
宗教界、言論界から暴力や差別が無くなるにはまだ無量年かかるのか。まあ無理か。

函館護国神社

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2020年3月1日 (日)

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函館護国神社(はこだて・ごこくじんじゃ)は、北海道函館市青柳町にある招魂社。祭神は函館市、小樽市、渡島・檜山・後志支庁の戦没者など。官祭招魂社内務大臣指定護国神社。道内には他の指定社として札幌護国神社北海道護国神社があるが、当社は最古の部類で、他2社と違い、戊辰戦争(函館戦争)の官軍戦没者を祭ったことに起源があるのが特徴である。函館山の東麓にあり、官軍戦没者の墓である函館官修墳墓59基や「招魂場」碑や戊辰戦争の陸海軍戦死者人名碑などが現存している。いわゆる護国神社様式の社殿を持つ。函館招魂社。占領中は潮見丘神社と称した。鳥居から市街地まで一直線に大通りが伸び、護国神社坂・高田屋通と呼ばれている。1km西南の、函館山の反対側には、幕府軍戦没者を祀る碧血碑がある。北海道・樺太の神社

目次

祭神

1万3000余柱(ウェブサイト)

『靖国神社百年史』では1万1950柱、「全国護国神社一覧」では1万3000柱。

歴史

函館招魂社
函館招魂社

1869年(明治2年)5月11日、箱館の戦闘が終了。18日、新政府軍が本拠地であった五稜郭を接収した。その直後の5月21日、箱館府知事で青森口総督であった清水谷公孝が大森浜(現在の大森公園周辺一帯)で招魂祭を執行し、戦没者218人(『百年史』)の霊を祭った(『市史』では160余人とする)。三つの御幣がある祭壇を設け、「徳山献功隊惣霊神」「長州整武隊惣霊神」「徳山山崎隊惣霊神」という名前で祭ったらしい(『藤枝家文書』)。9月5日、兵部省が現在地に社殿を創建。5日から7日にわたり、大規模な祭典が行われた(『百年史』の記述では「招魂場」碑を建てただけとも読める)。高田屋嘉兵衛が庭石としていた通称「亀石」を三つに割り、中央を鳥居と玉垣に使用し、一つを「招魂場」碑とし、残りを函館海軍墓地の戦没者記念碑とした。

1874年(明治7年)、招魂社は開拓使に移管された。1875年(明治8年)、競馬が行われる(函館競馬場の起源)。1876年(明治9年)7月17日、明治天皇の東北巡幸に際して官修墳墓と合わせ幣帛料25円を下賜し、20日、開拓使の杉浦誠を遣わして祭典を行った(祭文が『函館区史』に収録)。1877年(明治10年)から6月20日を例祭とする。同年7月、元松前藩主の松前修広が拝殿を造営。1881年(明治14年)、巡幸の際に祭祀料79円余下賜。1905年(明治38年)、例祭を5月6日に変更。

1913年(大正2年)3月28日、日清日露戦争の戦病者102柱の合祀が許可される。またこの年から例祭を箱館戦争の戦勝日である5月11日とする。

1939年(昭和14年)4月1日、内務省告示142号で北海道庁管内の北海道護国神社札幌護国神社とともに内務大臣指定護国神社の最初の34社の一つとなり、函館護国神社と改称。函館連隊区管内を崇敬区域とする。同年5月、管内の戦没者371柱を合祀(翌年159柱、翌々年539柱合祀)。同年8月、函館市長を会長とする御造営奉賛会が発足。境内整備に取り掛かり、3年後に竣工し、1942年(昭和17年)10月12日に遷座祭が行われた(総費用44万7000円)。終戦後の1946年(昭和21年)10月1日(30日とも)、潮見丘神社潮見が丘神社)と改称。1954年(昭和29年)11月1日(9月1日とも)に函館護国神社と復称した。

組織

受持神官

歴代社司

  • 1太田紀()<>:1939年(昭和14年)4月1日就任。

(ウェブサイト)

歴代宮司

  • 1太田紀()<-1948>:
  • 2伊達巽()<1948-1953>:1948年(昭和23年)4月1日就任。明治神宮宮司
  • 3佐伯芳彦()<1953-1958>:1953年(昭和28年)4月1日就任。北海道神宮宮司
  • 4真崎宗次(?-1984)<1958-1984>:1958年(昭和33年)4月1日就任。1984年(昭和59年)死去。
  • 5真崎不二彦(1932-2015)<1984-2015>:1984年(昭和59年)4月1日就任。北海道学芸大学卒。二松学舎大学卒。靖国神社に奉仕。2015/1/8死去。
  • 6大橋東城()<2015-2019>:2015年(平成27年)2月8日就任。
  • 7大橋幸生()<2019->:2019年(令和1年)7月1日就任。

(ウェブサイト)

参考文献・史料

  • 『靖国神社百年史』
  • 函館護国神社ウェブサイト
  • 『函館市史デジタル版通説編』第3巻第5編「「大函館」その光と影」[1]
  • 保科智治、1997「「箱館戦争関係墓碑」調査について」『市立函館博物館研究紀要』7[2]
  • 「近代競馬150年の歴史」(JRAウェブサイト)[3]
  • 1911年(明治44年)『函館区史』
  • 『開拓使公文鈔録 明治9年』
  • 1872年(明治5年)2月3日「函館招魂社祭祀料以下諸費別途交付ノ件」[4]
  • 1876年(明治9年)8月10日「函館招魂社臨時祭執行ノ件」[5]
  • 「藤枝家文書」(姥神大神宮社家文書。箱館戦争の顛末と招魂祭執行、戦死者名簿を記す)[6]
  • 1869年(明治2年)「巳六月出函中仲間諸用留/西地請負人月行司代」[7]

未見

  • 高原美忠編、1935『函館戦争史料』官祭函館招魂社社務所
  • 「函館護国神社史」『函館護国神社社報』連載
  • 真崎不二彦、1992『泥眼 能楽随想/評論集』函館護国神社
  • 1877年(明治10年)「招魂社事件録 明治十年一月」開拓使函館支庁民事課戸籍係(北海道立文書館所蔵・簿書2192)
  • 1879年(明治12年)「招魂社事件留 明治十二年一月」開拓使函館支庁民事課戸籍係(北海道立文書館所蔵・簿書3432)
  • 絵図史料
    • 1874年(明治7年)「函館招魂社修繕関係図」(北海道立文書館所蔵・簿書5794 (40)・『近世幕末期・明治前期描画図資料目録』収録番号3519)
    • 1876年(明治9年)「函館招魂場墓碑略絵図」(北海道立文書館所蔵・簿書5845 (10)・『資料目録』収録番号3520)
    • 1878年(明治11年)「函館招魂社并添地略図」(北海道立文書館所蔵・簿書2731 (98)・『資料目録』収録番号3521)
    • 1879年(明治12年)「招魂社脇松樹移植地の図」(北海道立文書館所蔵・簿書3375 (90)・『資料目録』収録番号2841)
    • 1883年(明治16年)「函館招魂社鳥居建替仕様図」(北海道立文書館所蔵・簿書8429 (4)・『資料目録』収録番号3522)
    • 1883年(明治16年)「函館区汐見町招魂社前官宅地の盛土図及び官舎平面図」(北海道立文書館所蔵・簿書8429 (6)・『資料目録』収録番号599)
    • 「函館招魂社付近割区絵図」(北海道立文書館所蔵・簿書番外7 (1-7)・『資料目録』収録番号181)
http://shinden.boo.jp/wiki/%E5%87%BD%E9%A4%A8%E8%AD%B7%E5%9B%BD%E7%A5%9E%E7%A4%BE」より作成

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