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鹿屋護国神社
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
鹿屋護国神社は鹿児島県鹿屋市向江町にある招魂社。官祭招魂社。指定外護国神社。鹿屋招魂社。鹿児島藩の官祭招魂社と官修墳墓も参照。
目次 |
祭神
官祭祭神
靖国神社誌[1]によれば11柱。しかし1940『鹿屋郷土史』「官祭護国神社」[2]によれば官祭祭神は以下の2柱のみという。
- 竹下五兵衛助次:9/12負傷(忠魂史ではこの日を死去日としている)。小俣村。11/19死去。高田官修墳墓。忠魂史[3]。殉難人名誌[4]。殉難者名鑑[5]。
- 小田新次郎為文:招魂社にあった碑文によると、西園寺公望の山陰道鎮撫に従った後、御所の護衛に当たったが、5月28日、病没して相国寺林光院(相国寺官修墳墓?)に葬られたという。しかし靖国神社忠魂史などでは、明治2年2月28日に「武蔵」艦の火災で殉職したと記される。忠魂史[6]。殉難者名鑑[7]。戊辰己巳殉難姓名録[8]
歴史
鎮座地
- 1和田山:「弓場ん元」という地だった。
- 2現在地:東向きだった。
- 3現在地:本殿を南向きに変更。
境内
- 本社
- 石碑:現存は確認できず。明治4年建立。児玉利章撰。
- 社務所
- 手水舎:「紀元二千六百年記念」。
- 碑:手水舎そば。寄進碑か。人名列挙。
- 「心」碑:平成27年11月20日建立。鹿屋市戦没者3858柱とある。
- 「飛行第九十八戦隊戦没者之霊」碑:昭和49年建立。
- 砲弾碑
- 「日露戦役紀念碑」
- 石仏:「奉祝御大典記念」
- 墓碑:天明年間
- (秋葉神社)
画像
資料
- 1972『鹿屋市史 下巻』「鹿屋市護国神社奉賛会」[11]
- 1995鹿屋市史 下巻 [改訂版]』「日露戦争の戦死者」[12]
- 1995鹿屋市史 下巻 [改訂版]』「戊辰戦争」[13]
- 1995鹿屋市史 下巻 [改訂版]』「昭和の郷土の戦死者」[14]
石碑
『鹿屋郷土史』[15]より。現在、この石碑の存在は確認できない。
「天子罷幕職、大政帰朝廷、徳川慶喜図不軌、発兵襲京師、遂致東北諸国擾乱矣、官軍奉勅、討之在鹿屋郷前後死于王事者二人、曰小田新次郎藤原為文、曰竹下五兵衛藤原助次、為文慶応丁卯閏八月以番兵一番隊伍長上京、戊辰正月三日、官兵禦賊於伏見鳥羽、為文留、護衛禁闕、尋従鎮撫使西園寺某巡山陰道、三月還京、至五月並罹脚疾、及疫癘廿八日遂不起、葬于林光院、年二十三、慶喜致城帰順、而余党拠奥羽北越、不服王命、是歳八月、助次以番兵五番隊直入出羽、九月十二日、撃賊於庄内大俣口、被重創、乃治創於越後高田病院、十一月十九日、遂卒于創、葬于金谷山、年二十、事既平、宮賜葬資金五十両祭資金百両、歳給米四十苞、以撫恤其後、為文雖病没以其死於従軍之際準之戦亡、賜金以助葬祭、如前数更賜金五十両以恤後、助次六郎衛門助備嫡子而為文多兵衛為善第二子也、至此一郷相謀建招魂塚乞余誌其崖略、嗚呼士之死、于王事分也亦栄也而官褒恤之涯又至矣、郷人乃建石以崇、義表思可謂君臣交尽礼矣吾焉得不欣然援筆哉 明治辛未春正月 一等教官 児玉利章謹撰」
(試訳。書き下し文)「天子、幕職を罷め、大政朝廷に帰す。徳川慶喜、不軌を図り、兵を発して京師を襲ふ。遂に東北諸国の擾乱を致せり。官軍、勅を奉じて之を討つ。鹿屋郷に在りて前後、王事に死する者二人あり。曰く小田新次郎藤原為文、曰く竹下五兵衛藤原助次。 為文、慶応丁卯閏八月、番兵一番隊伍長として上京す。戊辰正月三日、官兵、賊を伏見鳥羽に禦ぐ。為文、留まりて禁闕を護衛す。尋いで鎮撫使西園寺某に従ひ山陰道を巡り、三月京に還る。五月に至りて並びに脚疾を罹り、疫癘に及び、廿八日、遂に起たず。林光院に葬る。年二十三。 慶喜、城を致し帰順す。而して余党、奥羽北越に拠り、王命に服せず。是歳八月、助次、番兵五番隊を以て直に出羽に入る。九月十二日、庄内大俣口に賊を撃ち、重創を被る。乃ち創を越後高田病院に治し、十一月十九日、遂に創に卒す。金谷山に葬る。年二十。 事既に平ぎ、宮より葬資金五十両・祭資金百両・歳給米四十苞を賜ひ、以て其の後を撫恤す。為文、病に没すと雖も、其の従軍の際に死するを以て之を戦亡に準へ、金を賜ひて以て葬祭を助く。前の数の如く更に金五十両を賜ひて後を恤む。助次は六郎衛門助備の嫡子にして、為文は多兵衛為善の第二子なり。 此に至りて一郷、相謀りて招魂塚を建て、余に乞ひて其の崖略を誌す。嗚呼、士の死は王事に於て分なり。亦栄なり。而して官の褒恤の涯又至れり。郷人、乃ち石を建て以て義を崇び、表して思ふ。君臣の交礼を尽くすと謂ふ可し。吾れ焉んぞ欣然として筆を援ざらんや。」
(試訳。現代語訳)「天皇は幕府の職を廃して、大政は朝廷に返された。ところが徳川慶喜は謀反を企てて兵を起こし、京の都を襲い、遂には東北諸国にまで騒乱をもたらした。官軍は勅命を奉じて之を討った。この時、鹿屋郷において王事の為に前後して戦死した者が2人いた。小田新次郎為文と竹下五兵衛助次である。 為文は、慶応3年閏8月、番兵一番隊の伍長として上京した。慶応4年正月3日、官軍が伏見・鳥羽で敵軍を防いだ際、為文は京に残って御所の警護にあたった。その後まもなく鎮撫使西園寺某(西園寺公望)に従い山陰道を巡行し、3月に京へ戻った。やがて5月には脚の病を患い、さらに疫病にかかり、28日遂に病没した。林光院(相国寺林光院)に葬られた。享年23。 徳川慶喜は遂に城を差し出して恭順した。しかしなお残党は奥羽・北越に拠って王命に従わなかった。同年8月、助次は番兵五番隊とともに直ちに出羽へ出陣した。9月12日、庄内大俣口で敵軍と戦い重傷を負った。その傷を越後の高田病院で治療したが、11月19日遂にその傷がもとで死去した。金谷山に葬られた。享年20。 事既に平定すると、宮より葬儀の為に金50両、祭祀の為に100両、さらに毎年の扶養として米40俵が下賜され、その遺族が慰められた。為文は病没ではあったが、従軍中に命を落としたことをもって戦死に準じるとされ、葬祭の助けとして金が下賜された。その上さらに50両が与えられ、遺族への扶助がなされた。助次は六郎衛門助備の嫡子であり、為文は多兵衛為善の次男であった。 ここに至って一郷の人々は協議して招魂塚を建て、その由来を私に記すよう依頼してきた。嗚呼、武士の死は王事において当然の務めであり、また大いなる栄誉である。そして官からの褒賞と扶助も余りあるものだった。郷人はそこで石碑を建ててその義を崇め、心を表した。之は君臣の礼を尽くしたものといえるであろう。私はかくして喜んで筆を執ったのである。」