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四天王寺秋野坊
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
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秋野坊は大阪府大阪市天王寺区伶人町にあった天台宗寺院。廃絶。四天王寺子院で、四天王寺執行職(公文所職)を世襲した。小野妹子の末裔という(慊堂日暦)。四天王寺関連旧跡
南北朝時代には存在していた。北朝からは四天王寺の納所職として認められ、南朝からは1340年(興国1年/暦応3年)、念仏三昧院領新開庄領主を安堵されている。1365年(正平20年/貞治4年)安居神社別当職が1期に限り秋野坊に譲られた。
1510年(永正7年)には地震で被災した伽藍の修復のための諸国募財を行っている。妻帯。50石。四天王寺の西に屋敷があった。1879年(明治12年)からしばらくの間、東成郡役所が置かれた。
1887年(明治20年)頃に廃絶した(大原社会問題研究所栞)
1906年(明治39年)、大阪養老院(社会福祉法人聖徳会大阪老人ホーム)創設者の岩田民次郎が四天王寺旧秋野坊を借りて「大阪養老院少年部」を設置。1911年(明治44年)、旧秋野坊旧蔵の小型の摂政太子坐像を阿倍野の大阪養老院に迎え、翌1912年(大正1年)、秋野坊太子殿も移して聖徳殿と名付けた。太子像は松原市に移転した聖徳会大阪老人ホームに現存する。
1920年(大正9年)、秋野坊跡地に大原社会問題研究所が置かれた。
- 『秋野坊文書』:14点
- 大久保素公1936『太子に聴け』[1]
- 山崎竜洋2012「近世四天王寺における寺院社会構造」
- 川岸宏教1983「豊臣秀吉と四天王寺:「秋野坊文書」を中心として」『四天王寺国際仏教大学文学部紀要 』16
- 2000『四天王寺秋野坊文書について:大阪市文化財総合調査報告書22』
- 「敷地の沿革」『大原社会問題研究所栞』[2]
- 『大阪府全志』[https://www.google.co.jp/books/edition/%E5%A4%A7%E9%98%AA%E5%BA%9C%E5%85%A8%E5%BF%97/suxX666mMUEC?hl=ja&gbpv=1
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