ようこそ『神殿大観』へ。ただいま試験運用中です。

一心寺

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)

2021年11月27日 (土) 時点におけるWikiSysopKARASUYAMA (トーク | 投稿記録)による版
移動: 案内, 検索

一心寺(いっしんじ)は大阪府大阪市天王寺区逢阪(摂津国東成郡)にある浄土宗寺院。法然の旧跡とされる。本尊は阿弥陀如来法然上人二十五霊場。高岳院と号す。骨仏を作ることで知られる。山号は坂松山。

目次

歴史

1185年(文治1年)、四天王寺別当の慈円が新別所とし、法然を招いたという(新撰往生伝)。後白河法皇が四天王寺参詣の時に法然と共に日想観を行ったという。慶長年間、下総の清見寺の然蓮社本誉存牟が法然旧跡を慕って再興し、寿命山観称院一心寺と称した。1600年(慶長5年)徳川家康の子仙千代の葬儀を本誉存牟が行い、のちに仙千代の戒名の高岳院花窓林陽大童子を取って院号とした。1614年(慶長19年)徳川家康が陣を置いた。 1615年(元和1年)戦死者を埋葬し弔った。 1831年(天保2年)、昇誉が入り、のち真阿が入る。1856年(安政3年)、顕秀が始めた施餓鬼法要は民衆の心を掴んだ。

骨仏の造立は1851年(嘉永4年)から1887年(明治20年)に納骨された5万柱の骨で行ったのが始まり。1945年(昭和20年)3月、大阪大空襲で焼失。1966年(昭和41年)本堂再建。

伽藍

  • 本堂:1966年(昭和41年)再建。
  • 日想殿:1977年(昭和52年)建立。
  • 納骨堂:骨仏8体。10年に一度新たな骨仏を造立。
  • 念仏堂:南丹市に移築。
  • 仁王門:1997年(平成9年)建立。
  • 開山堂:本尊は法然。
  • 三千仏堂:2002年(平成14年)5月建立。
  • 本多忠朝墓:

骨仏

納骨期間 概要
納骨期間 概要
第1期 1851年(嘉永4年)~1887年(明治20年) 5万柱。戦災で焼失。
第2期 1888年(明治21年)~1897年(明治30年) 7万2000柱。戦災で焼失。
第3期 1898年(明治31年)~1908年(明治41年) 12万9000柱。戦災で焼失。
第4期 1909年(明治42年)~1918年(大正7年) 14万7000柱。戦災で焼失。
第5期 1919年(大正8年)~1928年(昭和3年) 16万1300柱。戦災で焼失。
第6期 1929年(昭和4年)~1938年(昭和13年) 20万2600柱。戦災で焼失。
第7期 1947年(昭和22年)以前 過去の骨仏の残骸と22万柱。1948年(昭和23年)開眼。
第8期 1948年(昭和23年)~1956年(昭和31年)
第9期 1957年(昭和32年)~1966年(昭和41年)
第10期 1967年(昭和42年)~1976年(昭和51年)
第11期 1977年(昭和52年)~1986年(昭和61年)
第12期 1987年(昭和62年)~1996年(平成8年)
第13期 1997年(平成9年)~2006年(平成18年) 16万柱。
第14期 2007年(平成19年)~2016年(平成28年) 22万3202柱。2017年(平成29年)6月開眼。
第15期 2017年(平成29年)~2027年(令和9年)?

組織

住職

  • 昇誉
  • 真阿
  • 51顕秀
  • 52真淳
http://shinden.boo.jp/wiki/%E4%B8%80%E5%BF%83%E5%AF%BA」より作成

注意事項

  • 免責事項:充分に注意を払って製作しておりますが、本サイトを利用・閲覧した結果についていかなる責任も負いません。
  • 社寺教会などを訪れるときは、自らの思想信条と異なる場合であっても、宗教的尊厳に理解を示し、立入・撮影などは現地の指示に従ってください。
  • 当サイトの著作権は全て安藤希章にあります。無断転載をお断りいたします(いうまでもなく引用は自由です。その場合は出典を明記してください。)。提供されたコンテンツの著作権は各提供者にあります。
  • 個人用ツール