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下総・無量寿寺
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
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中世の歴史はよく分からない。『浄土宗全書』によると、高声寺8世'''岌伝'''は最初は当寺住職だった。 | 中世の歴史はよく分からない。『浄土宗全書』によると、高声寺8世'''岌伝'''は最初は当寺住職だった。 | ||
- | 『浄土宗全書』「結城弘経寺志」に、それまで[[無本寺]] | + | 『浄土宗全書』「結城弘経寺志」に、それまで[[無本寺]](本寺を持たないことを幕府から特別に許された寺院)だったが、宝永3年(1706)12月、北東26kmにある'''関東十八檀林'''の一つ'''結城弘経寺'''(下総国結城郡・茨城県結城市)末となった。このとき正式に[[白旗流]]に転じたと言える。また同書によると、正徳2年(1712)8月、藤田派の由緒が認められて、[[増上寺]]が[[知恩院]]直末とすることを許したという。 |
昭和2年の『猿島郡郷土大観』には「'''土塔檀林'''」と称していたとある。また同書には、宝永3年(1706)12月に[[飯沼弘経寺]]末となったが「故あり離れて知恩院直末となり、明治維新後、弘経末に復す」とあるが、江戸時代にあるのは結城弘経寺末の誤りで、近代に飯沼弘経寺末になったということであろうか。 | 昭和2年の『猿島郡郷土大観』には「'''土塔檀林'''」と称していたとある。また同書には、宝永3年(1706)12月に[[飯沼弘経寺]]末となったが「故あり離れて知恩院直末となり、明治維新後、弘経末に復す」とあるが、江戸時代にあるのは結城弘経寺末の誤りで、近代に飯沼弘経寺末になったということであろうか。 | ||
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2015年2月23日 (月) 時点における版
無量寿寺(むりょうじゅじ)は、茨城県猿島郡五霞町にある、浄土宗鎮西派藤田流(廃絶)の拠点だった寺院。下総国葛飾郡。創建したのは藤田流の教義を整えた高声寺2世の良心。彼は、当寺に土塔を築き、秘伝を記した経典を納めたため、藤田流は「土塔派」「土塔流」「土塔義」とも呼ばれる。「小福田無量寿寺」 「東前山福田院無量寿寺」。単に「土塔」とも呼ばれる。(参考:同名寺院無量寿寺、土塔)
良心は、持阿とも号す。藤田流開祖の性心と同じく藤田氏の出身とされる。性心から高声寺を継承する。
当寺は、『猿島郡郷土誌』(昭和17年)には正和3年(1314)3月創建とあるが、他書では確認できない。同書には岩井の城主相馬氏から帰依を受けて建立。さらに性心は花園上皇から紫衣を賜り、「持阿禅師」号を賜ったと記す石碑があるとするがいかがなものか。
中世の歴史はよく分からない。『浄土宗全書』によると、高声寺8世岌伝は最初は当寺住職だった。
『浄土宗全書』「結城弘経寺志」に、それまで無本寺(本寺を持たないことを幕府から特別に許された寺院)だったが、宝永3年(1706)12月、北東26kmにある関東十八檀林の一つ結城弘経寺(下総国結城郡・茨城県結城市)末となった。このとき正式に白旗流に転じたと言える。また同書によると、正徳2年(1712)8月、藤田派の由緒が認められて、増上寺が知恩院直末とすることを許したという。
昭和2年の『猿島郡郷土大観』には「土塔檀林」と称していたとある。また同書には、宝永3年(1706)12月に飯沼弘経寺末となったが「故あり離れて知恩院直末となり、明治維新後、弘経末に復す」とあるが、江戸時代にあるのは結城弘経寺末の誤りで、近代に飯沼弘経寺末になったということであろうか。