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今熊野・観音寺
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
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- | '''観音寺'''(かんのんじ)は、京都府京都市東山区泉涌寺山内町にある[[観音信仰]]の[[真言宗]] | + | '''観音寺'''(かんのんじ)は、京都府京都市東山区泉涌寺山内町にある[[観音信仰]]の[[真言宗]]寺院。本尊は[[十一面観音]]。[[後堀河天皇]]菩提寺。[[真言宗泉涌寺派]]。[[泉涌寺]]子院。[[西国三十三所観音霊場]]第15番札所。[[新熊野神社]]の本地仏を祀るという。'''今熊野観音寺'''。[[泉山陵墓地]]の[[後堀河天皇陵]]が隣接する。山号は新那智山で、[[熊野三山]]の[[那智山]]に擬えられている。(参考:同名寺院[[観音寺]]) |
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本寺である泉涌寺より古いか。 | 本寺である泉涌寺より古いか。 | ||
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969年(安和2年)10月、左大臣藤原師尹を観音寺の西岡に埋葬。 | 969年(安和2年)10月、左大臣藤原師尹を観音寺の西岡に埋葬。 | ||
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1234年(文暦1年)8月、[[後堀河天皇]]を寺の北に葬った。 | 1234年(文暦1年)8月、[[後堀河天皇]]を寺の北に葬った。 | ||
1244年(寛元2年)1月、[[四条天皇]]の三回忌に法華八講を厳修。 | 1244年(寛元2年)1月、[[四条天皇]]の三回忌に法華八講を厳修。 | ||
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1160年(永暦1年)、[[後白河法皇]]は[[法住寺殿]]の近くに[[新熊野神社]]を創建。 | 1160年(永暦1年)、[[後白河法皇]]は[[法住寺殿]]の近くに[[新熊野神社]]を創建。 | ||
観音寺が本地仏に当てられた。 | 観音寺が本地仏に当てられた。 | ||
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==伽藍== | ==伽藍== | ||
*本堂:本尊の十一面観音は空海作と伝える。 | *本堂:本尊の十一面観音は空海作と伝える。 | ||
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*[[後堀河天皇陵]]:元は法華堂に葬られたという。長年所在不明になっていたが、「元禄の修陵」の際には山内の石塔が比定された。しかし、『山陵志』で現在地が推定され、それが幕末の「文久の修陵」で採用されて現在に至る。 | *[[後堀河天皇陵]]:元は法華堂に葬られたという。長年所在不明になっていたが、「元禄の修陵」の際には山内の石塔が比定された。しかし、『山陵志』で現在地が推定され、それが幕末の「文久の修陵」で採用されて現在に至る。 | ||
*[[鳥戸野陵]]: | *[[鳥戸野陵]]: | ||
- | *慈円塔:今熊野観音寺墓地の中にある。3基の石塔が並ぶ。[[慈円]] | + | *慈円塔:今熊野観音寺墓地の中にある。3基の石塔が並ぶ。[[慈円]]のものとされるが由緒は不詳。 |
*藤原長家塔:今熊野観音寺墓地の中にある。 | *藤原長家塔:今熊野観音寺墓地の中にある。 | ||
*藤原忠通塔:今熊野観音寺墓地の中にある。 | *藤原忠通塔:今熊野観音寺墓地の中にある。 |
2021年7月3日 (土) 時点における版
観音寺(かんのんじ)は、京都府京都市東山区泉涌寺山内町にある観音信仰の真言宗寺院。本尊は十一面観音。後堀河天皇菩提寺。真言宗泉涌寺派。泉涌寺子院。西国三十三所観音霊場第15番札所。新熊野神社の本地仏を祀るという。今熊野観音寺。泉山陵墓地の後堀河天皇陵が隣接する。山号は新那智山で、熊野三山の那智山に擬えられている。(参考:同名寺院観音寺)
歴史
本寺である泉涌寺より古いか。 弘仁年間(あるいは天長年間)に空海が嵯峨天皇の勅願で創建したとも、左大臣藤原緒嗣が自邸を寺としたのが始まりともいう。 鳥辺野に接する地にあり、貴顕の墓が多く築かれた。
969年(安和2年)10月、左大臣藤原師尹を観音寺の西岡に埋葬。 1016年(長和5年)8月、藤原穆子(一条尼、藤原道長室の母)を観音寺の「無常所」に埋葬。 1234年(文暦1年)8月、後堀河天皇を寺の北に葬った。 1244年(寛元2年)1月、四条天皇の三回忌に法華八講を厳修。 1160年(永暦1年)、後白河法皇は法住寺殿の近くに新熊野神社を創建。 観音寺が本地仏に当てられた。
1468年(応仁2年)8月、兵火で焼失。 1580年(天正8年)、再興するが往時の規模には至らなかった。 正徳年間、宗絮祖元が現在の本堂を再建した。 (『国史大辞典』)
伽藍
- 本堂:本尊の十一面観音は空海作と伝える。
- 医聖堂:
- 大師堂:
- 大講堂:
- 地蔵堂:
- 熊野権現社:
- 稲荷社:
- 金龍弁財天:
- 今熊野西国霊場:
- 霊光殿:
- 五智水:
- 福海寮:茶室。
- 後堀河天皇陵:元は法華堂に葬られたという。長年所在不明になっていたが、「元禄の修陵」の際には山内の石塔が比定された。しかし、『山陵志』で現在地が推定され、それが幕末の「文久の修陵」で採用されて現在に至る。
- 鳥戸野陵:
- 慈円塔:今熊野観音寺墓地の中にある。3基の石塔が並ぶ。慈円のものとされるが由緒は不詳。
- 藤原長家塔:今熊野観音寺墓地の中にある。
- 藤原忠通塔:今熊野観音寺墓地の中にある。
- 島津逆修塔:今熊野観音寺墓地の中にある。慶長の造立。5基が並ぶ。近くには歴代住職の墓もある。
資料
- 出雲路敬和『新熊野観音寺千百五十年史』