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仰徳神社

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2022年8月20日 (土)

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(ページの作成:「'''仰徳神社'''は山口県萩市の萩城にあった毛利家祖霊社。現在は毛利本家祖霊社豊栄神社、[[仰徳神社_(志都岐...」)
 
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'''仰徳神社'''は山口県萩市の萩城にあった[[毛利家]]の[[祖霊社]]。現在は[[毛利本家祖霊社]][[豊栄神社]][[仰徳神社_(志都岐山神社)]]に分化している。
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[[File:萩城跡・仰徳神社跡・石碑001.jpg|萩城跡の仰徳神社跡にある「重建大祖神廟記」碑。亀趺形式|thumb|250px]]
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'''仰徳神社'''は山口県萩市の萩城にあった[[毛利元就]]の[[霊社]]。[[毛利家]]の[[祖霊社]]。[[領主奉斎神社]]。現在は防府の[[毛利本家祖霊社]]、山口の[[豊栄神社]]、萩の[[仰徳神社_(志都岐山神社)]]に分化している。仰徳大明神、仰徳大明神社、御霊社、御霊神社とも。
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==奉斎==
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*1604年(慶長9年)頃:毛利元就
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*1762年(宝暦12年):土地神、[[天穂日命]]、毛利元就
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*1770年(明和7年):土地神、天穂日命、毛利元就、毛利輝元、毛利秀就
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*1811年(文化8年):土地神、天穂日命、毛利元就、毛利輝元、毛利秀就、毛利斉房
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*1849年(嘉永2年):土地神、天穂日命、毛利元就、毛利輝元、毛利秀就、毛利斉房、毛利斉熙、毛利斉元、毛利斉広
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*1853年(嘉永6年):土地神、天穂日命、毛利元就、毛利輝元、毛利秀就、毛利斉房、毛利斉熙、毛利斉元、毛利斉広、毛利隆元
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==社地変遷==
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[[File:萩城跡・模型・洞春寺・仰徳神社・明倫センター002.jpg|萩城模型(萩明倫学舎展示)に再現された洞春寺(左)と仰徳神社(右)|thumb|500px]]
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*1604年(慶長9年)頃:[[萩・春日神社]]境内。
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*1607年(慶長12年):萩城内三の郭。
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*1762年(宝暦12年):二の郭の土地神社に合祀。
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*1770年(明和7年):社殿を再建。
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*幕末:藩庁移転と共に山口に遷座。
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==歴史==
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[[File:萩城跡・模型・松陰記念館.jpg|萩城模型(道の駅萩往還・松陰記念館展示)|thumb|500px]]
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1604年(慶長9年)、毛利輝元が萩城に入り、[[豊栄神社|毛利元就神霊]]を[[萩・春日神社]]内に祭ったのが創始だと考えられる(『山口県神社誌』「豊栄神社」)。1607年(慶長12年)3月、霊社を春日神社から城内三の郭に遷座(1933(昭和8)『山口市史』)。春日神社境内の祠も残されて現存する。
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1759年(宝暦9年)、宝暦の改革の成功が祈願されている。
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1762年(宝暦12年)、毛利重就が二の郭の土地神社を改造して、そこに合祀した。新たに毛利家の祖(土師氏の始祖)である'''天穂日命'''をも合祀した(1933(昭和8)『山口市史』)。
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1770年(明和7年)9月1日から3日にかけて毛利元就200年祭を執行。新しい祠を造営した。このとき、'''毛利輝元'''('''宝心霊神''')、'''毛利秀就'''('''魂帰霊神''')を合祀する。[[洞春寺]]でも法要が行われている。この200年祭をきっかけに、安芸吉田の[[毛利家吉田郡山城跡墓地|毛利元就墓所]]の修復がなされた。
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1811年(文化8年)11月29日、白川家より'''毛利斉房'''に「'''斉房神霊'''」の神号が贈られ、勧請された。ただし、神璽は下されず、巻物に書き加えられた(『白川門人帳』154頁)。
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1824年(文政7年)、毛利元就神霊に'''仰徳大明神'''の神号が贈られたという(1933(昭和8)『山口市史』)。
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江戸時代末期の1836年(天保7年)、奇しくも'''毛利斉熙'''、'''毛利斉元'''、'''毛利斉広'''の三藩主が同じ年に立て続けに死去した。毛利斉広にいたっては、藩主だったのはわずか20日間ほどであった。1849年(嘉永2年)4月5日、この三藩主に白川家より「'''斉熙神霊'''」、「'''斉元神霊'''」、「'''斉広神霊'''」の神号が贈られて祭られた。やはり神璽は下されず、巻物に書き加えられた(『白川門人帳』155頁)。
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初代毛利元就の子、'''毛利隆元'''は嫡子であったが、謎の急死を遂げたため、正式な毛利家歴代には長らく数えられていなかった。しかし、名誉復帰と顕彰の流れが進み、墓地の新造がすでに行われていた。
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これを受けて毛利家は白川家に神号を申請し、1853年(嘉永6年)4月24日、白川家より「'''感徳霊神'''」の神号が贈られた(岸本論文には「感応霊神」とある。)。斉房ら三代は、巻物に神号を書き加えることによって勧請としていたが、毛利家の願によって元就以下三代と同様に、特に霊神の神号と神璽が下された(『白川門人帳』156頁)。
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1864年(元治1年)3月5日には尊皇攘夷の藩論確定の奉告を行なっている。1865年(慶応1年)2月、内乱沈静化に際し、藩内の動揺を収めるため、毛利敬親父子が4藩主とともに参拝した。
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1851年(嘉永4年)、毛利敬親は古来毛利家に忠節を誓って死を遂げた者を調査を命じ、過去帳を編纂した。これを[[洞春寺]]におさめて追善供養を始めた。その後、内外での衝突が増え、国事に身を捧げた者が増加。1867年(慶応3年)、山口藩は1863年(文久3年)の下関戦争以降の戦没者の名前を洞春寺の過去帳に記入を命じ、永遠に弔うように命じた。維新後はこの過去帳は神名帳に改められ毛利本家祖霊社内に別に神座を設けて祀ったという。(防長歴史暦)
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藩庁が萩城から山口に移ると、霊社も山口に遷座した。
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[[山口・多賀神社]]に仮殿を建てたらしい。以後は[[毛利本家祖霊社]]を参照。
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祭神のうち、土地神と天穂日命は萩城に残され、仰徳神社の名前で[[志都岐山神社]]境内社として残された(のち廃絶か)。
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File:萩城跡・仰徳神社跡-01.jpg|参道
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File:萩城跡・仰徳神社跡・石碑002.jpg|「重建大祖神廟記」碑。
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File:萩城跡・仰徳神社跡・石碑003.jpg|「重建大祖神廟記」碑。
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File:萩城跡・仰徳神社跡・石碑004.jpg|「重建大祖神廟記」碑。
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File:萩城跡・仰徳神社跡・石碑005.jpg|「重建大祖神廟記」碑。
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File:萩城跡・仰徳神社跡・石碑006.jpg|「重建大祖神廟記」碑。
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File:萩城跡・模型・洞春寺・仰徳神社・明倫センター001.jpg|萩城模型(萩明倫学舎展示)
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File:萩城跡・模型・洞春寺・仰徳神社・明倫センター003.jpg|萩城模型(萩明倫学舎展示)
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==資料==
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*『八江萩名所図画』「仰徳大明神社御祭礼舞楽図」[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/851870/19]
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*「御霊社祭礼之節出勤之図」[http://archives.pref.yamaguchi.lg.jp/msearch/photo.php?t=2&id=13866&s=1]
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*「御霊社御石碑図」[http://archives.pref.yamaguchi.lg.jp/msearch/photo.php?t=2&id=13865&s=1]
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*「御霊社石碑之図」[http://archives.pref.yamaguchi.lg.jp/msearch/photo.php?t=2&id=13864&s=1]
[[category:山口県]]
[[category:山口県]]

2022年8月20日 (土) 時点における最新版

萩城跡の仰徳神社跡にある「重建大祖神廟記」碑。亀趺形式

仰徳神社は山口県萩市の萩城にあった毛利元就霊社毛利家祖霊社領主奉斎神社。現在は防府の毛利本家祖霊社、山口の豊栄神社、萩の仰徳神社_(志都岐山神社)に分化している。仰徳大明神、仰徳大明神社、御霊社、御霊神社とも。

目次

奉斎

  • 1604年(慶長9年)頃:毛利元就
  • 1762年(宝暦12年):土地神、天穂日命、毛利元就
  • 1770年(明和7年):土地神、天穂日命、毛利元就、毛利輝元、毛利秀就
  • 1811年(文化8年):土地神、天穂日命、毛利元就、毛利輝元、毛利秀就、毛利斉房
  • 1849年(嘉永2年):土地神、天穂日命、毛利元就、毛利輝元、毛利秀就、毛利斉房、毛利斉熙、毛利斉元、毛利斉広
  • 1853年(嘉永6年):土地神、天穂日命、毛利元就、毛利輝元、毛利秀就、毛利斉房、毛利斉熙、毛利斉元、毛利斉広、毛利隆元

社地変遷

萩城模型(萩明倫学舎展示)に再現された洞春寺(左)と仰徳神社(右)
  • 1604年(慶長9年)頃:萩・春日神社境内。
  • 1607年(慶長12年):萩城内三の郭。
  • 1762年(宝暦12年):二の郭の土地神社に合祀。
  • 1770年(明和7年):社殿を再建。
  • 幕末:藩庁移転と共に山口に遷座。

歴史

萩城模型(道の駅萩往還・松陰記念館展示)

1604年(慶長9年)、毛利輝元が萩城に入り、毛利元就神霊萩・春日神社内に祭ったのが創始だと考えられる(『山口県神社誌』「豊栄神社」)。1607年(慶長12年)3月、霊社を春日神社から城内三の郭に遷座(1933(昭和8)『山口市史』)。春日神社境内の祠も残されて現存する。 1759年(宝暦9年)、宝暦の改革の成功が祈願されている。

1762年(宝暦12年)、毛利重就が二の郭の土地神社を改造して、そこに合祀した。新たに毛利家の祖(土師氏の始祖)である天穂日命をも合祀した(1933(昭和8)『山口市史』)。

1770年(明和7年)9月1日から3日にかけて毛利元就200年祭を執行。新しい祠を造営した。このとき、毛利輝元宝心霊神)、毛利秀就魂帰霊神)を合祀する。洞春寺でも法要が行われている。この200年祭をきっかけに、安芸吉田の毛利元就墓所の修復がなされた。 1811年(文化8年)11月29日、白川家より毛利斉房に「斉房神霊」の神号が贈られ、勧請された。ただし、神璽は下されず、巻物に書き加えられた(『白川門人帳』154頁)。 1824年(文政7年)、毛利元就神霊に仰徳大明神の神号が贈られたという(1933(昭和8)『山口市史』)。 江戸時代末期の1836年(天保7年)、奇しくも毛利斉熙毛利斉元毛利斉広の三藩主が同じ年に立て続けに死去した。毛利斉広にいたっては、藩主だったのはわずか20日間ほどであった。1849年(嘉永2年)4月5日、この三藩主に白川家より「斉熙神霊」、「斉元神霊」、「斉広神霊」の神号が贈られて祭られた。やはり神璽は下されず、巻物に書き加えられた(『白川門人帳』155頁)。

初代毛利元就の子、毛利隆元は嫡子であったが、謎の急死を遂げたため、正式な毛利家歴代には長らく数えられていなかった。しかし、名誉復帰と顕彰の流れが進み、墓地の新造がすでに行われていた。 これを受けて毛利家は白川家に神号を申請し、1853年(嘉永6年)4月24日、白川家より「感徳霊神」の神号が贈られた(岸本論文には「感応霊神」とある。)。斉房ら三代は、巻物に神号を書き加えることによって勧請としていたが、毛利家の願によって元就以下三代と同様に、特に霊神の神号と神璽が下された(『白川門人帳』156頁)。

1864年(元治1年)3月5日には尊皇攘夷の藩論確定の奉告を行なっている。1865年(慶応1年)2月、内乱沈静化に際し、藩内の動揺を収めるため、毛利敬親父子が4藩主とともに参拝した。


1851年(嘉永4年)、毛利敬親は古来毛利家に忠節を誓って死を遂げた者を調査を命じ、過去帳を編纂した。これを洞春寺におさめて追善供養を始めた。その後、内外での衝突が増え、国事に身を捧げた者が増加。1867年(慶応3年)、山口藩は1863年(文久3年)の下関戦争以降の戦没者の名前を洞春寺の過去帳に記入を命じ、永遠に弔うように命じた。維新後はこの過去帳は神名帳に改められ毛利本家祖霊社内に別に神座を設けて祀ったという。(防長歴史暦)

藩庁が萩城から山口に移ると、霊社も山口に遷座した。 山口・多賀神社に仮殿を建てたらしい。以後は毛利本家祖霊社を参照。 祭神のうち、土地神と天穂日命は萩城に残され、仰徳神社の名前で志都岐山神社境内社として残された(のち廃絶か)。

資料

  • 『八江萩名所図画』「仰徳大明神社御祭礼舞楽図」[1]
  • 「御霊社祭礼之節出勤之図」[2]
  • 「御霊社御石碑図」[3]
  • 「御霊社石碑之図」[4]
http://shinden.boo.jp/wiki/%E4%BB%B0%E5%BE%B3%E7%A5%9E%E7%A4%BE」より作成

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