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伊勢・宇治神社
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
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- | [[皇大神宮]]末社の[[那自売神社]] | + | [[皇大神宮]]末社の[[那自売神社]]の旧地に祀られたとも、1658年(万治1年)の洪水のとき、[[神路山]]から流されてきた祠を祭ったのが起源ともいう。 |
- | かつては中之切の森にあり、「饗土の山神社」「宇治山神社」などと称した。1883年(明治16年)8月、元不動堂明王院(法楽舎別院[[明王院]])の鎮守の弓場天神を遷座し境内社となった。 | + | かつては中之切の森にあり、「饗土の山神社」「宇治山神社」などと称した。1883年(明治16年)8月、元不動堂明王院(法楽舎別院[[伊勢・明王院|明王院]])の鎮守の弓場天神を遷座し境内社となった。 |
1908年(明治41年)3月、周辺の16の神社を合祀。同年7月、また'''荒木田一門氏神社'''を合祀。さらに1910年(明治43年)12月に現在の丸山の地に遷座した。1912年(大正1年)、境内社の弓場天神も本社に合祀した。 | 1908年(明治41年)3月、周辺の16の神社を合祀。同年7月、また'''荒木田一門氏神社'''を合祀。さらに1910年(明治43年)12月に現在の丸山の地に遷座した。1912年(大正1年)、境内社の弓場天神も本社に合祀した。 | ||
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合祀された神社には、荒木田一門氏神社のほか、求神社、崇忠神社などがあった。 | 合祀された神社には、荒木田一門氏神社のほか、求神社、崇忠神社などがあった。 | ||
- | + | 荒木田一門氏神社はその名の通り、[[荒木田氏]](一門)の氏神で、荒木田氏の祖神である天見通命、あるいは佐祢麿を祭るともいう。 | |
もと岩井田にあり、以前は皇大神宮の所管社だったが、明治5年6月度会県に移管。 | もと岩井田にあり、以前は皇大神宮の所管社だったが、明治5年6月度会県に移管。 | ||
- | + | 荒木田一門氏神社の境内社に荒木田守武(弥武彦神霊)の霊社があった。正保年間、守武の三世の孫荒木田守任が自邸内に創建。守武の遺稿などを納めた。遺徳を慕うものが増えたことにより、1757年(宝暦7年)9月、岩井田に遷座した。祀られていた守武像が現存する。 | |
求神社は、内宮内にあった末社遥拝所のひとつとも言われ、御裳須曾姫命を祀る。 | 求神社は、内宮内にあった末社遥拝所のひとつとも言われ、御裳須曾姫命を祀る。 | ||
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鏡石神社、石津賀神社はもと今在家にあった。祭神はそれぞれ新川比売命と不詳。皇大神宮の所管だった。1873年(明治6年)、度会県に移管。 | 鏡石神社、石津賀神社はもと今在家にあった。祭神はそれぞれ新川比売命と不詳。皇大神宮の所管だった。1873年(明治6年)、度会県に移管。 | ||
- | 崇忠神社は[[菅原道真]]、[[和気清麿]]、[[楠正成]]、[[天児根命]]、[[藤原鎌足|大織冠鎌足]]を祀る。もとは[[神宮御師]]の太郎館家邸の邸内社。天神社に1868年(明治1年)10月18日、浦田町太郎館季賢邸に祀られていた和気清麿と楠正成の霊を合祀して崇忠神社と称した。さらに1880年(明治13年) | + | 崇忠神社は[[菅原道真]]、[[和気清麿]]、[[楠正成]]、[[天児根命]]、[[藤原鎌足|大織冠鎌足]]を祀る。もとは[[神宮御師]]の太郎館家邸の邸内社。天神社に1868年(明治1年)10月18日、浦田町太郎館季賢邸に祀られていた和気清麿と楠正成の霊を合祀して崇忠神社と称した。さらに1880年(明治13年)、太郎館邸の天児根命、大織冠鎌足を合祀した。 |
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+ | 太郎館季賢邸に祀られていた、[[荷田春満|荷田東麿]]、[[賀茂真淵]]、[[本居宣長]]、[[平田篤胤]]の霊代を末社とし、1887年(明治20年)、玉鉾神社と称した。1900年(明治33年)、瀧倉神社に遷座した。 | ||
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2019年4月22日 (月) 時点における版
宇治神社 うじ じんじゃ | |
概要 | 宇治の産土神社。荒木田氏の祖神を合祀。 |
奉斎 | 大山祇神・天見通命・弥武彦神ほか |
所在地 | 三重県伊勢市宇治今在家町172 |
所在地(旧国郡) | 伊勢国度会郡 |
所属(現在) | 神社本庁 |
格式など | |
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目次 |
概要
皇大神宮末社の那自売神社の旧地に祀られたとも、1658年(万治1年)の洪水のとき、神路山から流されてきた祠を祭ったのが起源ともいう。
かつては中之切の森にあり、「饗土の山神社」「宇治山神社」などと称した。1883年(明治16年)8月、元不動堂明王院(法楽舎別院明王院)の鎮守の弓場天神を遷座し境内社となった。
1908年(明治41年)3月、周辺の16の神社を合祀。同年7月、また荒木田一門氏神社を合祀。さらに1910年(明治43年)12月に現在の丸山の地に遷座した。1912年(大正1年)、境内社の弓場天神も本社に合祀した。
合祀された神社には、荒木田一門氏神社のほか、求神社、崇忠神社などがあった。
荒木田一門氏神社はその名の通り、荒木田氏(一門)の氏神で、荒木田氏の祖神である天見通命、あるいは佐祢麿を祭るともいう。 もと岩井田にあり、以前は皇大神宮の所管社だったが、明治5年6月度会県に移管。 荒木田一門氏神社の境内社に荒木田守武(弥武彦神霊)の霊社があった。正保年間、守武の三世の孫荒木田守任が自邸内に創建。守武の遺稿などを納めた。遺徳を慕うものが増えたことにより、1757年(宝暦7年)9月、岩井田に遷座した。祀られていた守武像が現存する。
求神社は、内宮内にあった末社遥拝所のひとつとも言われ、御裳須曾姫命を祀る。
瀧倉神社は玉移良比女神を祀る。このあたりにあった野上寺(廃絶)の鎮守。皇大神宮末社の葦立弖神社の旧地ともいう。
鏡石神社、石津賀神社はもと今在家にあった。祭神はそれぞれ新川比売命と不詳。皇大神宮の所管だった。1873年(明治6年)、度会県に移管。
崇忠神社は菅原道真、和気清麿、楠正成、天児根命、大織冠鎌足を祀る。もとは神宮御師の太郎館家邸の邸内社。天神社に1868年(明治1年)10月18日、浦田町太郎館季賢邸に祀られていた和気清麿と楠正成の霊を合祀して崇忠神社と称した。さらに1880年(明治13年)、太郎館邸の天児根命、大織冠鎌足を合祀した。
太郎館季賢邸に祀られていた、荷田東麿、賀茂真淵、本居宣長、平田篤胤の霊代を末社とし、1887年(明治20年)、玉鉾神社と称した。1900年(明治33年)、瀧倉神社に遷座した。
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参考文献
- 『宇治山田市史』