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加佐登白鳥塚
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2022年12月4日 (日)
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[[国学者]]の[[本居宣長]]は『古事記伝』で加佐登の白鳥塚こそが能褒野墓だと推定した。[[平田篤胤]]も支持した。 | [[国学者]]の[[本居宣長]]は『古事記伝』で加佐登の白鳥塚こそが能褒野墓だと推定した。[[平田篤胤]]も支持した。 | ||
1876年(明治9年)、教部省はここを能褒野墓に定めた。しかし、翻って1879年(明治12年)10月、[[日本武尊墓|王塚(丁字塚)]]が日本武尊の墓に治定された。 | 1876年(明治9年)、教部省はここを能褒野墓に定めた。しかし、翻って1879年(明治12年)10月、[[日本武尊墓|王塚(丁字塚)]]が日本武尊の墓に治定された。 | ||
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2022年12月4日 (日) 時点における最新版
白鳥塚は、三重県鈴鹿市石薬師町にある日本武尊の墓の伝承地。加佐登神社に隣接する。白鳥陵。白鳥信仰も参照。白鳥塚古墳群1号墳。ヒヨドリ塚、茶臼山、丸山などとも呼ばれた。
歴史
国学者の本居宣長は『古事記伝』で加佐登の白鳥塚こそが能褒野墓だと推定した。平田篤胤も支持した。 1876年(明治9年)、教部省はここを能褒野墓に定めた。しかし、翻って1879年(明治12年)10月、王塚(丁字塚)が日本武尊の墓に治定された。
墳丘
円墳と思われていたが2005年(平成17年)の調査で、全長78mの帆立貝型の前方後円墳と判明した。後円部は直径67m、高さ9m。前方部は幅8m。墳丘には河原石が葺かれ、埴輪が並べられていた。5世紀前半の築造とみられる。 周辺に宝冠塚(3号墳)、宝装塚(4号墳)、王塚(6号墳)、車塚(境内図に描かれるが不詳)がある。古墳群としては7基あるらしいが2号墳、7号墳は不詳。
(日本歴史地名大系、「県史跡白鳥塚古墳(1号墳)第2次発掘調査現地説明会資料」[1]ほか)