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北野天満宮松梅院

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2021年10月20日 (水)

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'''松梅院'''(しょうばいいん)は、[[北野天満宮]]の社僧を務めた[[天台宗]]寺院。[[北野天満宮徳勝院|徳勝院]]・[[北野天満宮妙蔵院|妙蔵院]]とともに北野天満宮の三院家の一つ。廃絶。僧侶にも関わらず、[[菅原道真]]の後裔とされる吉見氏が世襲した。[[足利家]]の御師職となる。
'''松梅院'''(しょうばいいん)は、[[北野天満宮]]の社僧を務めた[[天台宗]]寺院。[[北野天満宮徳勝院|徳勝院]]・[[北野天満宮妙蔵院|妙蔵院]]とともに北野天満宮の三院家の一つ。廃絶。僧侶にも関わらず、[[菅原道真]]の後裔とされる吉見氏が世襲した。[[足利家]]の御師職となる。
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1471年7月、後南朝の皇子一宮が応仁の乱の西軍に迎えられて松梅院に滞在した。
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1471年(文明3年)7月、後南朝の皇子一宮が応仁の乱の西軍に迎えられて松梅院に滞在した。
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1527年12月23日炎上(実隆公記)。
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1527年(大永7年)12月23日炎上(実隆公記)。
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中近世には毎年正月3日に「裏白連歌」(北野裏白)が行われた。特殊な懐紙を使った連歌で、1557年(弘治3年)から1643年(寛永20年)までの懐紙が残る。
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中近世には毎年正月3日に「裏白連歌」(北野裏白)が行われた。特殊な懐紙を使った連歌で、1557年から1643年までの懐紙が残る。
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『北野神社引付』や『北野天満宮文書』を残した。
『北野神社引付』や『北野天満宮文書』を残した。
== 歴代 ==
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*[[菅原道真]]
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*高視
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*孝標
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*禅陽()<-1336->:事実上の初代とみられる。[[足利尊氏]]に随従し、1336年、足利家の御師職となる。石見法眼。法印。
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*禅陽()<-1336->:事実上の初代とみられる。[[足利尊氏]]に随従し、1336年(延元1年/建武3年)、足利家の御師職となる。石見法眼。法印。
*慶誉()<>:「松梅院系図」になし。
*慶誉()<>:「松梅院系図」になし。
*禅厳()<-1365->:禅陽の子。応安年間に御師。法印。
*禅厳()<-1365->:禅陽の子。応安年間に御師。法印。
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*禅尋()<>:応永3年御師?贈法印。
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*禅尋()<>:1396年(応永3年)御師?贈法印。
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*禅能()<-1431->:応永34年に御師?将軍足利義教の勘気を受けた。法印。僧正。
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*禅能()<-1431->:1427年(応永34年)に御師?将軍足利義教の勘気を受けた。法印。僧正。
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*禅芸()<>:永享12年に御師?法眼
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*禅親()<-1458->:永享13年に御師?法印。
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*(禅盛):禅能の弟子?寛正3年御師。法印。
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*(禅盛):禅能の弟子?1462年(寛正3年)御師。法印。
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*(秀慶):光園院。正長元年から永享まで御師
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*(秀慶):光園院。1428年(正長1年)から永享まで御師
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*(禅栄):密乗院。永享3年から永享12年まで御師。禅芸に元の如く返す。法印。
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*(禅栄):密乗院。1431年(永享3年)から1440年(永享12年)まで御師。禅芸に元の如く返す。法印。
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*禅予()<-1491->:禅親の猶子。禅春(禅芸の弟。享徳3年死去)の子。禅盛の子とも。宝徳2年生。寛正6年7月御師。長享元年10月15日御師再任。明応3年1月14日殺害された。45歳。法眼。法印。北野社家日記を多く残す。
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*禅予(?-1494)<-1494>:禅親の猶子。禅春(禅芸の弟。1454年(享徳3年)死去)の子。禅盛の子とも。1450年(宝徳2年)生。1465年(寛正6年)7月御師。1487年(長享1年)10月15日御師再任。1494年(明応3年)1月14日殺害された。45歳。法眼。法印。北野社家日記を多く残す。
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*禅椿()<-1487>:禅親の子。日野富子から借銭したが返済ができなかったという。文正元年11月7日御師?1487年解任。
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*禅椿()<-1487>:禅親の子。日野富子から借銭したが返済ができなかったという。1466年(文正1年)11月7日御師?1487年(長享1年)解任。
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*禅果()<>:禅尊?春松丸?禅予の長男?
*禅果()<>:禅尊?春松丸?禅予の長男?
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*禅光()<1502->:禅予の次男?幼名は梅寿丸。延徳4年三綱。1502年12月13日就任。
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*禅光()<1502->:禅予の次男?幼名は梅寿丸。1492年(明応1年)三綱。1502年(文亀2年)12月13日就任。
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*禅興(?-1601)<>:将軍足利義晴の養育係だった清光院と懇意だった。娘のおさこが豊臣秀次側室となる。天文4年三綱。弟に妙蔵院禅祐。1601/1/30死去。
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*禅興(?-1601)<>:将軍足利義晴の養育係だった清光院と懇意だった。娘のおさこが豊臣秀次側室となる。1535年(天文4年)三綱。弟に妙蔵院禅祐。1601年(慶長6年)1月30日死去。
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*禅永()<-1584->:禅興の子。天正19年法印。弘治3年三綱。
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*禅永()<-1584->:禅興の子。1591年(天正19年)法印。1557年(弘治3年)三綱。
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*禅昌()<-1612>:禅永の子。慶長12年法印。豊臣秀次事件に連座。のち復権。1612年隠居して徳勝院を建立。北野社家日記を多く残す
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*禅昌()<-1612>:禅永の子。1607年(慶長12年)法印。豊臣秀次事件に連座。のち復権。1612年(慶長17年)隠居して徳勝院を建立。北野社家日記を多く残す
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*禅意(1596-1636)<1612->:禅昌の子。寛永4年律師。寛永9年法橋。承応3年法印。慶長3年三綱。
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*禅意(1596-1636)<1612->:禅昌の子。1596年(慶長1年)生。1627年(寛永4年)律師。1632年(寛永9年)法橋。1654年(承応3年)法印。1598年(慶長3年)三綱。1636年(寛永13年)死去;
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*禅珍()<-1641->:社法を制定。寛永11年法橋。寛永16年法眼。寛永承応3年法印。元和4年三綱。
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*禅珍()<-1641->:社法を制定。1634年(寛永11年)法橋。1639年(寛永16年)法眼。1654年(承応3年)法印。1618年(元和4年)三綱。
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*尚禅()<>:
*禅覚()<-1701->:
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*「北野社祠官筆頭松梅院の定着と豊臣政権 : 『北野社家日記』禅昌記の考察」[http://hdl.handle.net/2241/00146491]
*「北野社祠官筆頭松梅院の定着と豊臣政権 : 『北野社家日記』禅昌記の考察」[http://hdl.handle.net/2241/00146491]

2021年10月20日 (水) 時点における最新版

松梅院(しょうばいいん)は、北野天満宮の社僧を務めた天台宗寺院。徳勝院妙蔵院とともに北野天満宮の三院家の一つ。廃絶。僧侶にも関わらず、菅原道真の後裔とされる吉見氏が世襲した。足利家の御師職となる。

1471年(文明3年)7月、後南朝の皇子一宮が応仁の乱の西軍に迎えられて松梅院に滞在した。 1527年(大永7年)12月23日炎上(実隆公記)。 中近世には毎年正月3日に「裏白連歌」(北野裏白)が行われた。特殊な懐紙を使った連歌で、1557年(弘治3年)から1643年(寛永20年)までの懐紙が残る。 『北野神社引付』や『北野天満宮文書』を残した。

歴代

  • 菅原道真()<>:
  • 高視()<>:
  • 雅規()<>:
  • 資忠()<>:
  • 孝標()<>:
  • 定義()<>:
  • 在良()<>:
  • 為恒()<>:
  • 真義()<>:
  • 高猷()<>:
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  • 慶厳()<>:
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  • 慶禅()<>:
  • 親禅()<>:
  • 慶祐()<>:
  • 禅陽()<-1336->:事実上の初代とみられる。足利尊氏に随従し、1336年(延元1年/建武3年)、足利家の御師職となる。石見法眼。法印。
  • 慶誉()<>:「松梅院系図」になし。
  • 禅厳()<-1365->:禅陽の子。応安年間に御師。法印。
  • 禅尋()<>:1396年(応永3年)御師?贈法印。
  • 禅能()<-1431->:1427年(応永34年)に御師?将軍足利義教の勘気を受けた。法印。僧正。
  • 慶芸()<>:なし
  • 禅尚()<>:なし
  • 禅芸()<>:1440年(永享12年)に御師?法眼
  • 禅親()<-1458->:1441年(嘉吉1年)に御師?法印。
  • (禅盛):禅能の弟子?1462年(寛正3年)御師。法印。
  • (秀慶):光園院。1428年(正長1年)から永享まで御師
  • (禅栄):密乗院。1431年(永享3年)から1440年(永享12年)まで御師。禅芸に元の如く返す。法印。
  • 禅予(?-1494)<-1494>:禅親の猶子。禅春(禅芸の弟。1454年(享徳3年)死去)の子。禅盛の子とも。1450年(宝徳2年)生。1465年(寛正6年)7月御師。1487年(長享1年)10月15日御師再任。1494年(明応3年)1月14日殺害された。45歳。法眼。法印。北野社家日記を多く残す。
  • 禅椿()<-1487>:禅親の子。日野富子から借銭したが返済ができなかったという。1466年(文正1年)11月7日御師?1487年(長享1年)解任。
  • 禅祝()<>:
  • 禅兆()<>:
  • 禅勝()<>:
  • 禅果()<>:禅尊?春松丸?禅予の長男?
  • 禅光()<1502->:禅予の次男?幼名は梅寿丸。1492年(明応1年)三綱。1502年(文亀2年)12月13日就任。
  • 禅興(?-1601)<>:将軍足利義晴の養育係だった清光院と懇意だった。娘のおさこが豊臣秀次側室となる。1535年(天文4年)三綱。弟に妙蔵院禅祐。1601年(慶長6年)1月30日死去。
  • 禅永()<-1584->:禅興の子。1591年(天正19年)法印。1557年(弘治3年)三綱。
  • 禅昌()<-1612>:禅永の子。1607年(慶長12年)法印。豊臣秀次事件に連座。のち復権。1612年(慶長17年)隠居して徳勝院を建立。北野社家日記を多く残す
  • 禅意(1596-1636)<1612->:禅昌の子。1596年(慶長1年)生。1627年(寛永4年)律師。1632年(寛永9年)法橋。1654年(承応3年)法印。1598年(慶長3年)三綱。1636年(寛永13年)死去;
  • 禅珍()<-1641->:社法を制定。1634年(寛永11年)法橋。1639年(寛永16年)法眼。1654年(承応3年)法印。1618年(元和4年)三綱。
  • 尚禅()<>:
  • 禅覚()<-1701->:
  • 禅深()<-1736->:
  • 禅章()<>:
  • 禅秦()<>:
  • 禅恒()<>:
  • 禅隆()<>:
  • 禅陳(資陳)()<>:
  • 光子()<>:
  • 「北野社祠官筆頭松梅院の定着と豊臣政権 : 『北野社家日記』禅昌記の考察」[1]
  • 「近世初期の北野社と南光坊天海-松梅院と宮仕の座配争論を中心に」[2]
http://shinden.boo.jp/wiki/%E5%8C%97%E9%87%8E%E5%A4%A9%E6%BA%80%E5%AE%AE%E6%9D%BE%E6%A2%85%E9%99%A2」より作成

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