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大原陵

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2022年3月21日 (月)

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後鳥羽天皇は1239年(延応1年)2月22日に隠岐にて崩御したが、藤原能茂が京都に遺骨を持ち帰り、大原[[勝林院]]に納めた。その後、[[梶井門跡]]尊快親王と修明門院藤原重子が、[[水無瀬殿]]から建物を移築して法華堂を建立し、陵墓とした。
後鳥羽天皇は1239年(延応1年)2月22日に隠岐にて崩御したが、藤原能茂が京都に遺骨を持ち帰り、大原[[勝林院]]に納めた。その後、[[梶井門跡]]尊快親王と修明門院藤原重子が、[[水無瀬殿]]から建物を移築して法華堂を建立し、陵墓とした。
のち1242年(仁治3年)9月12日、佐渡の[[順徳天皇]]が崩御すると、帰京して「大原御墓所」に納骨された。「大原御墓所」は明らかではないが、一般に後鳥羽法華堂と同一のものとみなされた。
のち1242年(仁治3年)9月12日、佐渡の[[順徳天皇]]が崩御すると、帰京して「大原御墓所」に納骨された。「大原御墓所」は明らかではないが、一般に後鳥羽法華堂と同一のものとみなされた。
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江戸時代には法華堂は消滅していたが、勝林院境内の十三重塔が両天皇陵に擬せられて、治定された。「大原法華堂」と称し、整備された。文久山陵図229
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江戸時代には法華堂は消滅していたが、勝林院境内の十三重塔が両天皇陵に擬せられて、治定された。「大原法華堂」と称し、整備された。(文久山陵図229)
1906年(明治39年)3月23日、従来、「大原法華堂」と称してきたが、「大原陵」と改称する(明治天皇紀)。
1906年(明治39年)3月23日、従来、「大原法華堂」と称してきたが、「大原陵」と改称する(明治天皇紀)。
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File:大原・大原陵・参道1.JPG|三千院参道入口にある大原陵の参道の道標
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File:大原・大原陵・参道2_(1).JPG|参道
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File:大原・大原陵・参道2_(1).JPG|大原陵入口。左奥に勝林院本堂が見える。
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File:大原・大原陵・参道2_(2).JPG|参道
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File:大原・大原陵・参道2_(2).JPG|制札
File:大原・大原陵・参道2_(3).JPG|参道
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File:大原・大原陵・参道2_(4).JPG|手水鉢
File:大原・大原陵・参道2_(4).JPG|手水鉢

2022年3月21日 (月) 時点における最新版

拝所
大原法華堂と大原陵
十三重石塔
勝林院。東南に大原陵がある。(国土地理院空中写真より)

大原陵は京都府京都市左京区大原勝林院町(山城国愛宕郡)にある後鳥羽天皇順徳天皇陵墓勝林院門前にある。大原法華堂が隣接する。

後鳥羽天皇は1239年(延応1年)2月22日に隠岐にて崩御したが、藤原能茂が京都に遺骨を持ち帰り、大原勝林院に納めた。その後、梶井門跡尊快親王と修明門院藤原重子が、水無瀬殿から建物を移築して法華堂を建立し、陵墓とした。 のち1242年(仁治3年)9月12日、佐渡の順徳天皇が崩御すると、帰京して「大原御墓所」に納骨された。「大原御墓所」は明らかではないが、一般に後鳥羽法華堂と同一のものとみなされた。 江戸時代には法華堂は消滅していたが、勝林院境内の十三重塔が両天皇陵に擬せられて、治定された。「大原法華堂」と称し、整備された。(文久山陵図229) 1906年(明治39年)3月23日、従来、「大原法華堂」と称してきたが、「大原陵」と改称する(明治天皇紀)。


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