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勝林院
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2022年3月21日 (月)
勝林院(しょうりんいん)は京都府京都市左京区大原勝林院町(山城国愛宕郡)にある天台宗寺院。本尊は阿弥陀如来。天台宗延暦寺派。法然上人二十五霊場。大原別所、証拠阿弥陀堂とも呼ばれる。大原寺の下院の中心とされる。山号は魚山。
目次 |
歴史
- 1013年(長和2年)、寂源が大原に隠棲し、勝林院と称した(元亨釈書、〓嚢鈔)。常行三昧を続けたら毘沙門天が降臨したという。現在の本尊を康尚が造立。これ以前に835年(承和2年)、円仁が天台声明の根本道場として創建ともいう。
- 1018年(寛仁2年)、覚超と遍救を招いて法華八講を営んだ。
- 1020年(寛仁4年)には覚超と遍救が論争した(大原談義)。本尊の阿弥陀如来が奇瑞を示して決着を付けたという。声明の伝習の拠点としてだけでなく談議所としても発展した。
- 1046年(永承1年)、本尊改修。
- 1186年(文治2年)秋、顕真が明遍、貞慶、重源、証真、智海、湛学と共に法然を招いて「勝林院の丈六堂」で大原問答を行った(法然上人伝記)。300人の聴衆が聞き入ったという。法然の主張が正しかった証拠として阿弥陀像が立ち上がった(光明を放ったとも)。二度にわたり論争に決着の証拠を示したので本尊は「証拠の阿弥陀」と呼ばれるようになる。
- 1476年(文明8年)10月、内裏焼亡のため後花園天皇七回忌が勝林院に勅使が参向して行われた。この時の記録『魚山の御のり』が伝わる。
- 1490年(延徳2年)8月、本堂焼失。本尊を救出する際に顔面を破損。
- 1490年(延徳2年)閏8月15日、天皇、勝林院の焼け残った観音小像を宮中に招いて叡覧。
- 1492年(明応1年)、本尊の顔面を修復。
- 1506年(永正3年)10月7日、勝林院と来迎院の間で対立があるが、勅して和解させる。
- 1524年(大永4年)、本堂再建。
- 1544年(天文13年)7月、洪水で本堂破損。
- 1633年(寛永10年)、春日局の寄進で本堂再建。9月15日落慶法要。
- 1659年(万治2年)4月21日、後水尾法皇と東福門院が勝林院で融通念仏を受けた。
- 1736年(元文1年)1月4日、本堂焼失。翌年9月、本尊を修復して仮本堂で開眼。
- 1778年(安永7年)3月15日、本堂再建。
- 2012年(平成24年)、本尊を美術院が修復。
(日本歴史地名大系、国史大辞典ほか)
伽藍
大原寺も参照。
- 本堂:本尊は証拠の阿弥陀。向かって左に毘沙門天、右に不動明王を祀る。向かって左の脇壇には法然像、踏出阿弥陀如来、寂源絵像を、右の脇壇には元三大師絵像、普賢菩薩、白衣観音、崇源院位牌、護国英霊位牌を祀る。また向かって右に十一面観音を祀る。現在の本堂は1778年の再建。幅七間、奥行六間の総欅造り。屋根はサワラの柿葺。きめ細やかな彫刻が欄間、蟇股、手挟などに施されている。
- 法然700年遠忌碑:
- 惟喬親王1120年遠忌碑:惟喬親王の記念碑
- 観音堂:本堂の東。
- 山王社:鎮守社。本堂の東。
- 弁天社:本堂の北西。
- 法然腰掛石:門前にある。
- 熊谷直実腰掛石:門前にある。熊谷直実
- 熊谷直実鉈捨藪:門前にある。
- 大原法華堂:本尊は普賢菩薩。門前にある。後鳥羽天皇と順徳天皇の菩提を弔うために1240年(仁治1年)、尊快法親王が水無瀬離宮から殿舎を移築して建立。元は大原陵の地にあったとされる(?)。1736年(元文1年)焼失。1778年(安永7年)再建。幕末明治に現在地に移転か。1936年(昭和11年)修復。
- 後鳥羽天皇陵:門前にある。
- 順徳天皇陵:門前にある。
- 最胤親王墓:本堂の北側にある。隣に無銘の五輪塔もある。
- 宝篋印塔:1316年(正和5年)銘
- 石碑群:6基。板碑か。
- 西方院跡:
- 梶井宮北墓地:勝林院の東の山中にある。
- 梶井宮東墓地:本堂の北にある。聖谷墓地内。
- 三千院門主墓地:本堂の北にある。聖谷墓地内。周辺に僧侶の墓碑をはじめ、膨大な数の石塔が集められている。
- 鐘楼:梵鐘は平安時代。鐘楼は寛永年間、春日局の再建。
組織
住職
現在は子院の宝泉院と実光院が3年交代で住職を務めているという(チラシ「勝林院大改修」)。
- 1寂源()<1013->:
- 2蓮好()<?-1047>:1047年(永承2年)9月、退任。
- 3長宴(1016-1081)<1047->:小野守経の子。1016年(長和5年)生。慶命に学び、皇慶から灌頂。延暦寺北谷定林房に住す。1047年(永承2年)9月、勝林院住職。1067年(治暦3年)11月元慶寺別当。1081年(永保1年)4月2日死去。66歳。通称は大原僧都、勝林上綱。著書『四十帖決』『五相成身私記』など多数。
- 4永宴()<1112->:1112年(天永3年)2月、勝林院住職。門下に来迎院開山の良忍がいる。永縁。
- 5永意()<>:
- 聖融()<1336->:1336年(延元1年)就任か。
資料
- 江藤澂英1932「大原勝林院(宗祖遺跡号)」[1]
- 川勝政太郎1934「新資料―龍安寺の慶長十五年在銘鉄燈籠・勝林院の正和五年在銘宝篋印塔」『史迹と美術』38
- 天納中海1989『魚山顕密声明集略本』
- 山本博子1999「法然上人霊跡第二十一番大原勝林院について」『史学論集―佛教大学文学部史学科創設三十周年記念』
- 荻美津夫2005「寂源と勝林院」『古代中世の史料と文学』
- 山路興造2009「大原勝林院の修正会」『京都芸能と民俗の文化史』
- 田口標・松下幸司・宇野日出生2010「京都大原の山林文書(3)御入木山における山林売買を中心として」[2]
- 勝林院一千年紀実行委員会編2013『千年響流―勝林院開創一千年紀慶讃法要紀念:京都大原魚山大原寺寂源上人』
- 伊東史朗2013「勝林院阿弥陀如来像(証拠阿弥陀)に関する基礎的資料―康尚、定朝のかかわりとその意義」『仏教芸術』330
- 鈴木久男2013「京都大原魚山勝林院本堂阿弥陀如来坐像の調査」『京都産業大学日本文化研究所報』19
- 鈴木久男・伊東史朗・天納聖佳2014「京都大原魚山勝林院本尊阿弥陀如来像調査並びに所蔵品整理作業中間報告」[3]
- 京都産業大学編2020『大原魚山勝林院本尊阿弥陀如来像調査報告書』
- 小泉敏夫2018『京都・探勝志―三千院・勝林院・宝泉院・千本釈迦堂』
- 大原古文書研究会『勝林院町文書―梶井御殿の村』