ようこそ『神殿大観』へ。ただいま試験運用中です。

大坂本願寺

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)

(版間での差分)
移動: 案内, 検索
1行: 1行:
-
[[ファイル:石山本願寺模型・真宗大谷派難波別院展示-01.jpeg|thumb|500px|石山本願寺模型(真宗大谷派難波別院展示)]]
+
[[ファイル:石山本願寺模型・真宗大谷派難波別院展示-01.jpeg|thumb|600px|石山本願寺模型(真宗大谷派難波別院展示)]]
'''大坂本願寺'''(おおさか・ほんがんじ)は、摂津国大坂にあった時の[[本願寺]]。[[蓮如]]が創建した坊舎が起源。第10代証如、第11代顕如の時代に御影が遷されて本願寺となり、約50年使われた。11年にわたる石山合戦の戦場となり、多数の出城や砦を擁した。隣接して[[生国魂神社]]やその神宮寺の[[法案寺]]、本願寺に臣従していた[[大坂興正寺]]があった。
'''大坂本願寺'''(おおさか・ほんがんじ)は、摂津国大坂にあった時の[[本願寺]]。[[蓮如]]が創建した坊舎が起源。第10代証如、第11代顕如の時代に御影が遷されて本願寺となり、約50年使われた。11年にわたる石山合戦の戦場となり、多数の出城や砦を擁した。隣接して[[生国魂神社]]やその神宮寺の[[法案寺]]、本願寺に臣従していた[[大坂興正寺]]があった。
跡地は現在の大阪城跡の周辺だと考えられている。[[大阪城蓮如名号碑]]が建てられている。遺構はほとんど見つかっていない。'''石山本願寺'''。[[本願寺遷座旧跡]]も参照。
跡地は現在の大阪城跡の周辺だと考えられている。[[大阪城蓮如名号碑]]が建てられている。遺構はほとんど見つかっていない。'''石山本願寺'''。[[本願寺遷座旧跡]]も参照。
13行: 13行:
-
跡地は豊臣家の大坂城、徳川家の大坂城となった。
+
跡地は[[豊臣家]]の大坂城、[[徳川家]]の大坂城となった。
20行: 20行:
*阿弥陀堂
*阿弥陀堂
*御影堂
*御影堂
-
*興正寺
+
*[[天満興正寺|興正寺]]
*子院多数
*子院多数
*[[生国魂神社]]
*[[生国魂神社]]

2023年12月28日 (木) 時点における版

石山本願寺模型(真宗大谷派難波別院展示)

大坂本願寺(おおさか・ほんがんじ)は、摂津国大坂にあった時の本願寺蓮如が創建した坊舎が起源。第10代証如、第11代顕如の時代に御影が遷されて本願寺となり、約50年使われた。11年にわたる石山合戦の戦場となり、多数の出城や砦を擁した。隣接して生国魂神社やその神宮寺の法案寺、本願寺に臣従していた大坂興正寺があった。 跡地は現在の大阪城跡の周辺だと考えられている。大阪城蓮如名号碑が建てられている。遺構はほとんど見つかっていない。石山本願寺本願寺遷座旧跡も参照。

目次

歴史

蓮如時代

  • 1496年(明応5年)11月、蓮如が「一字の坊舎」を建てる。没後、実賢が住する。
  • 実如の隠居所となる。
  • 1532年(天文1年)6月:証如が入る。
  • 1533年(天文2年):山科本願寺の焼失を受けて御影が遷座。
  • 1539年(天文8年):証如、山科帰還を断念。
  • 1542年(天文11年)11月:阿弥陀堂竣工。二堂が並ぶ。


跡地は豊臣家の大坂城、徳川家の大坂城となった。


境内・関連旧跡

画像

http://shinden.boo.jp/wiki/%E5%A4%A7%E5%9D%82%E6%9C%AC%E9%A1%98%E5%AF%BA」より作成

注意事項

  • 免責事項:充分に注意を払って製作しておりますが、本サイトを利用・閲覧した結果についていかなる責任も負いません。
  • 社寺教会などを訪れるときは、自らの思想信条と異なる場合であっても、宗教的尊厳に理解を示し、立入・撮影などは現地の指示に従ってください。
  • 当サイトの著作権は全て安藤希章にあります。無断転載をお断りいたします(いうまでもなく引用は自由です。その場合は出典を明記してください。)。提供されたコンテンツの著作権は各提供者にあります。
  • 個人用ツール