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学養寺

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)

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'''学養寺'''は京都下京にあった[[日蓮宗]]寺院。[[洛中法華二十一寺]]の一つ。戦国時代の京都における[[身延門流]]の拠点だった。[[妙伝寺]]に併合か。
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==歴史==
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[[身延山]]9世の日学に帰依し、京都布教を命じられた日養が応永年間に創建。
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天文法難の後、同じ[[身延門流]]の[[妙伝寺]]に併合。子院の妙伝院に引き継がれたともいう(「身延山歴代略譜」の日学の項目に「京都学養寺開基 今ノ妙伝寺内妙釈院是ナリ」とある[http://doi.org/10.15054/00000647])。
== 組織 ==
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===歴代===
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*日学()<>:開山とされることもある。
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*日学(1386-1459)<>:成就院。開山とされることもある。身延9世。
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*1日養()<>
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*1日養(?-1459)<>:実教院。但馬国出身。日学の弟子。最初、密教を学んだが、応永年間、諸国廻国して身延山で日学に帰依して改宗した。祖師像と大曼荼羅を授けられ、京都弘通を命じられた。京都に学養寺を創建し、永享年間、日為に譲り、但馬に帰り、堂を建てた。1449年、請われて丹後で布教し、丹後最初の日蓮宗寺院である妙立寺をはじめ多数の寺院を建てたという。1459年8月16日、郷里で死去。
*2日為()<>:
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*3日讃()<>:開山とされることもある。
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*3日讃(?-1474)<>:開山とされることもある。
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*5日頼(?-1533)<>:
*6日要()<>:
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*7日教()<>:
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2019年12月28日 (土) 時点における版

学養寺は京都下京にあった日蓮宗寺院。洛中法華二十一寺の一つ。戦国時代の京都における身延門流の拠点だった。妙伝寺に併合か。

歴史

身延山9世の日学に帰依し、京都布教を命じられた日養が応永年間に創建。

天文法難の後、同じ身延門流妙伝寺に併合。子院の妙伝院に引き継がれたともいう(「身延山歴代略譜」の日学の項目に「京都学養寺開基 今ノ妙伝寺内妙釈院是ナリ」とある[1])。

組織

歴代

  • 日学(1386-1459)<>:成就院。開山とされることもある。身延9世。
  • 1日養(?-1459)<>:実教院。但馬国出身。日学の弟子。最初、密教を学んだが、応永年間、諸国廻国して身延山で日学に帰依して改宗した。祖師像と大曼荼羅を授けられ、京都弘通を命じられた。京都に学養寺を創建し、永享年間、日為に譲り、但馬に帰り、堂を建てた。1449年、請われて丹後で布教し、丹後最初の日蓮宗寺院である妙立寺をはじめ多数の寺院を建てたという。1459年8月16日、郷里で死去。
  • 2日為()<>:
  • 3日讃(?-1474)<>:開山とされることもある。
  • 4日顕(?-1500)<>:
  • 5日頼(?-1533)<>:
  • 6日要()<>:
  • 7日教()<>:
  • 8日勇()<>:
  • 9日現()<>:
  • 10日潤()<>:
  • 11日栄()<>:
  • 12日受()<>:

「洛陽学養寺代々」(「中世日蓮教団の丹後進出に関する一考察 : 実教院日養上人を中心として」[2]

http://shinden.boo.jp/wiki/%E5%AD%A6%E9%A4%8A%E5%AF%BA」より作成

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