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実相院

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)

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実相院(じっそういん)は、京都府京都市左京区岩倉上蔵町にある天台宗門跡寺院。天台宗系単立。天台寺門宗から独立。岩倉門跡。山号は岩蔵山。

目次

歴史

静基が紫野(京都市北区紫野上野町)に創建。1229年(寛喜1年)の創建とされることがあるが、これは静基が灌頂を受けた年である。静基は、近衛家系の出身だが、師匠であり叔父に当たる聖護院静忠から近衛家所領を譲り受けて実相院を創建したという。

のち今出川通小川(上京区実相院町)に移転。鎌倉時代を通じて寺領を拡大させた。 室町時代、岩倉大雲寺境内の現在地に移転。この地は大雲寺子院の成金剛院があった。移転は1411年(応永18年)とも応永年間とも応仁年間ともいう。 大雲寺に移ったのは南北朝時代から大雲寺の寺務を実相院が管轄していたためという。旧地には里坊が残されたが応仁の乱で廃絶したという。 園城寺南瀧院も実相院の配下にあった。

1502年(文亀2年)、細川政元に寺領を一時没収された。 1574年(天正2年)、織田信長が寺領10石寄進。 1575年(天正3年)、織田信長、180石寄進。 寛永年間、義尊が大雲寺本堂を再建。 1716年(享保1年)11月22日、本禅寺前の元興福寺喜多院の里坊を購入した。 1720年(享保5年)、実相院に承秋門院旧殿を移築した。 義周の代に612石。 1871年(明治4年)、寺領が召し上げられ財政難に陥る。 8月には寺宝を売却。10月には持仏堂・什物土蔵・小座敷以外の全ての建物を京都府の病院として献納した。 戦後、園城寺末から離れ単立寺院となる。

伽藍

子院

ほかに坊官として芝之坊、岸之坊、蔵井坊がいた。

組織

実相院門跡周辺(国土地理院空中写真より)
実相院門跡(国土地理院空中写真より)

歴代住職

『華頂要略』に「自円珍至静基十七代灌頂相承」とある。

  • 円珍(814-891)<>:園城寺長吏1世。
  • 康済(828-899)<>:園城寺長吏4世。
  • 増命(843-927)<>:園城寺長吏5世。
  • 京意()<>:
  • 敬一()<>:園城寺長吏9世。
  • 運昭()<>:園城寺長吏10世。
  • 行誉()<>:園城寺長吏12世。
  • 余慶(919-991)<>:園城寺長吏14世。
  • 勤修(945-1008)<>:藤原氏。園城寺長吏16世?。浄妙寺検校。『望月仏教大辞典』に「勧修」。
  • 心誉(971-1029)<>:法成寺別当。園城寺長吏21世。
  • 行円(978-1047)<>:源氏。
  • 頼豪(1004-1084)<>:藤原有家の子。園城寺戒壇設置が認められず憤死。
  • 行勝(1049-1124)<>:敦貞親王王子。梵釈寺別当。
  • 勝運()<>:勾当雅職の子。藤原時房の孫。宝治房と号す。
  • 公顕(1110-1193)<>:園城寺長吏35世。南瀧院門跡の祖という。顕康王の王子。勝運から灌頂。法務。護持僧。牛車。1182年(寿永1年)1月8日、園城寺長吏となり在職1年。1185年(文治1年)園城寺長吏に再任し、在職4年。1190年(建久1年)3月4日、天台座主となるが7日に辞任。1193年(建久4年)9月17日死去。84歳。本覚院と号す。
  • 頼兼(1185-1261)<>:諸本にないが華頂要略にあり。大納言源師頼の孫。証遍の実子。1185年(文治1年)生。公胤に入室。覚朝から灌頂。1256年(康元1年)園城寺長吏。1261年(弘長1年)7月18日死去。77歳。権僧正。
  • 覚朝()<>:園城寺長吏45世。安芸僧正。源仲経の子。1227年(安貞1年)園城寺長吏。青龍院と号す。


  • 静基(1214-1259)<>:初代。室町兼基の子。1214年(建保2年)生。叔父に当たる聖護院静忠に入室。1229年(寛喜1年)青龍院覚朝から灌頂。1259年(正元1年)死去。46歳。一身阿闍梨。実相院と号す。
  • 増忠(1233-1298)<>:園城寺長吏61世。関白太政大臣近衛家実の子。1233年(天福1年)生(1234年(文暦1年)とも)。聖護院静忠に入室。静基の弟弟子に当たる。1250年(建長2年)静忠から灌頂を受ける。1285年(弘安8年)12月7日園城寺長吏。法務。1298年(永仁6年)1月24日死去。66歳。
  • 静誉(1249-1296)<>:園城寺長吏65世。関白太政大臣鷹司兼平の子。1249年(建長1年)生。増忠に入室。1270年(文永7年)随心院仙朝から灌頂。1292年(正応5年)9月8日園城寺長吏。1296年(永仁4年)死去。48歳。北白川僧正。
  • 増基(1282-1352)<>:園城寺長吏73世。関白鷹司基忠の子。1282年(弘安5年)生。増忠に入室。1299年(正安1年)聖護院覚助法親王から灌頂。1324年(正中1年)1月27日、園城寺長吏。南瀧院門跡。鎌倉に下り、幕府のため祈祷を行った。1327年(嘉暦2年)10月に変異祈祷として法華法を営み、1331年(元弘1年/元徳3年)9月には後醍醐天皇の挙兵を受けて尊星王法を営んだ。鎌倉幕府の崩壊で京都に帰還。室町幕府成立後はその護持僧となり、11346年(正平1年/貞和2年)9月の武家五壇法では中壇を務め、1348年(正平3年/貞和4年)には尊星王法を行った。花園天皇などの護持僧。1350年(観応1年)の観応の擾乱で負けた直義方に付いたため護持僧から外されたらしい。法務。1352年(正平7年/文和1年)7月21日死去。71歳。後実相院と号す。
  • 増静()<>:関白鷹司基忠の子。早世。東大寺別当・東寺長者(不詳)。(諸門跡承伝系図になし。華頂要略にあり)
  • 桓豪()<>:(諸門跡承伝系図、華頂要略になし)
  • 増覚(1282-1343)<>:園城寺長吏77世。准大臣近衛兼教の子。1282年(弘安5年)生。増基の弟子。聖護院覚助法親王から灌頂。1330年(元徳2年)園城寺長吏。増基の後継者だったが、増基より早く、1343年(興国4年/康永2年)死去。大雲寺と号す。
  • 増真(生没年不詳)<>:増基の譲状により後継者とされたというが不詳。1353年(正平8年/文和2年)2月10日、後光厳天皇綸旨により増仁は増真に実相院を譲るように命じられる。
  • 増仁(1302-1368)<1352-1368>:園城寺長吏81世。権大納言鷹司冬経の子。関白鷹司基忠の猶子。1302年(乾元1年)生。増基に入室。1324年(正中1年)増基から灌頂。1345年(興国6年/貞和1年)園城寺長吏。1346年(正平1年/貞和2年)までに南瀧院門跡を継承。1348年(正平3年/貞和4年)園城寺長吏再任。1352年(正平7年/文和1年)9月17日、実相院の相続が幕府から認められる。如意寺を歴任。1353年(正平8年/文和2年)2月10日、後光厳天皇綸旨により増真に実相院を譲るように命じられる。1356年(正平11年/延文1年)5月、足利尊氏は御教書で再び増仁に実相院の管領を認めた。護持僧。1368年(正平23年/応安1年)6月11日死去。67歳。宝昭院と号す。
  • 静深(生没年不詳)<>:園城寺長吏82世。左大臣近衛経平の子。1342年(興国3年/康永1年)増基から灌頂。1346年(正平1年/貞和2年)9月23日園城寺長吏。増仁より前に実相院を相続していたが、観応の擾乱で負けた直義方に付いたため地位を追われたか死去したという説もある。
  • 良瑜(1330-1397)<1368-?>:園城寺長吏84世。二条兼基の子。1330年(元徳2年)生。増仁から灌頂。1368年(正平23年/応安1年)、5月6日に南瀧院門跡を、6月7日に実相院を増仁から継承。二条家からの就任は異例だがふさわしい近衛流の門弟がいないための中継ぎとしての継承だったという(しかし二条家相続が続く)。1397年(応永4年)死去。。熊野三山検校。常住院門主。四天王寺別当。一説に聖護院門跡。(略歴は聖護院#組織を参照)
  • 道意(1354-1429)<?-1391>:園城寺長吏95世。聖護院門跡中興。摂政太政大臣二条良基の子。1354年(正平9年/文和3年)生。良瑜の弟子。如意寺。実相院を1391年(元中8年/明徳2年)6月まで管領した。同年秋に聖護院を継承して復興させた。1429年(永享1年)死去。系譜類では実相院歴代に含めないことが多い。
  • 増珍(1362-1413)<1391->:園城寺長吏96世。権大納言今小路良冬の子。二条良基の猶子。「惟康親王王子」は誤りか。1362年(正平17年/貞治1年)生。初名は道淳。1380年(天授6年/康暦2年)良瑜から灌頂。法住寺、南瀧院門跡を歴任。1384年(元中1年/至徳1年)12月21日(27日とも)園城寺長吏。1403年(応永10年)5月9日園城寺長吏再任。1408年(応永15年)9月、園城寺長吏再任。1413年(応永20年)1月30日死去。52歳。
  • 増詮(生没年不詳)<>:園城寺長吏98世。将軍足利義詮の孫。足利満詮の子。足利義満の猶子。増珍の弟子で増珍から灌頂。1413年(応永20年)12月27日園城寺長吏。1420年(応永27年)9月10日園城寺長吏再任。1428年(正長1年)4月15日、園城寺長吏再任。1442年(嘉吉2年)6月17日、准后宣下。義運と改名。大僧正。一身阿闍梨。
  • 義命()<>:園城寺長吏101世。文安年間、師の命に背いたため追放されたという。権僧正。南瀧院。
  • 増運(1434-1493)<>:近衛房嗣の子。1434年(永享6年)生。義運(増詮)の弟子で灌頂も受ける。一身阿闍梨。法務。大僧正。1455年(康正1年)閏4月4日、園城寺長吏を退任。1467年(応仁1年)9月20日、後花園上皇の出家の戒師を務めた。1471年(文明3年)7月12日、若君不例のため紫宸殿で祈祷護摩。准后。1493年(明応2年)11月26日死去。60歳。
  • 義桓()<>:園城寺長吏。常盤井宮全明親王の王子。准后。望月仏教大辞典では「義恒」。
  • 慈運(1589-1614)<>:大納言大炊御門経頼の子。関白近衛前久(時嗣、晴嗣とも)の猶子。1589年(天正17年)生。灌頂を受けず。1614年(慶長19年)3月19日死去。26歳。「義運」は誤りか。
  • 義尊(1601-1661)<?-1661>:足利家の嫡流。将軍足利義昭の孫。足利高山(大乗院門跡義尋)の子。母は古市胤子(後陽成天皇女房)。聖護院道光法親王の異父兄。1601年(慶長6年)生。寂雄から灌頂。寛永年間に実相院を相続。1661年(寛文1年)1月14日死去。61歳。墓所は実相院宮墓地の横にある。足利家の嫡流は断絶となった。法厳院と号す。園城寺長吏111世。
  • 義延法親王(1662-1706)<1671-1706>:後西天皇皇子。園城寺長吏114世。1662年(寛文2年)生。幼称は五宮。義尊の弟子。1671年(寛文11年)9月19日親王。25日実相院に入寺得度。戒師は聖護院道寛親王。1681年(天和1年)10月27日、二品。12月6日、一身阿闍梨。1682年(天和2年)1月5日、灌頂。12月6日、園城寺長吏。1686年(貞享3年)9月18日、禁中で後光明天皇33回忌御忌八講に参勤。1691年(元禄4年)8月18日、蟄居を命じられる。1706年(宝永3年)4月復帰するが同年10月19日死去。45歳。墓所は実相院宮墓地。二品。俗名は幸嘉親王。十如院宮と号す。
  • 峰宮(1710-1713)<1712-1713>:霊元天皇の第十五皇子。1710年(宝永7年)生。1712年(正徳2年)7月3日(6月21日とも)相続。翌1713年(正徳3年)4月29日死去。4歳。墓所は実相院宮墓地(華頂要略には清浄華院に埋葬とある)。岑宮。峯宮。顕明院宮と号す。
  • 義周法親王(1713-1740)<1715-1740>:伏見宮邦永親王の王子。霊元天皇猶子。1713年(正徳3年)(1712年(正徳2年)とも)生。幼称は受宮。1715年(正徳5年)7月8日実相院相続。1725年(享保10年)11月11日親王宣下。16日、実相院に入寺得度。戒師は南松院敬祐。1727年(享保12年)12月7日改衣。1728年(享保13年)5月13日(1731年(享保16年)とも)、園城寺長吏117世。1732年(享保17年)4月26日、園城寺拝堂。1740年(元文5年)5月27日死去(6月3日とも)。28歳(29歳とも)。墓所は実相院宮墓地。俗名は邦光親王。得不退院宮と号す。
  • 増賞法親王(1734-1770)<1746-1752>:有栖川宮職仁親王王子。桜町天皇猶子。1734年(享保19年)生。幼称は節宮。1741年(寛保1年)2月13日、実相院相続を内約。1746年(延享3年)5月8日、親王宣下。16日、実相院に入室得度。戒師は祐常。1749年(寛延2年)4月、園城寺で加行。6月9日改衣。1752年(宝暦2年)7月19日、聖護院に移る。園城寺長吏?。1770年(明和7年)死去。俗名は種徳親王。至誠心寺と号す。
  • 健宮(1778-1780)<1778-1780>:慶光天皇(閑院宮典仁親王)皇子。1778年(安永7年)生。同年9月(8月20日とも)に実相院を相続。1780年(安永9年)4月死去。3歳。墓所は実相院宮墓地。普門示現院と号す。
  • 義海(1788-1832)<1796-1832>:右大臣近衛経煕の子。園城寺長吏120世。1788年(天明8年)生。1796年(寛政8年)5月(1795年(寛政7年)3月25日とも)、実相院を相続。1797年(寛政9年)9月3日、北岩倉別殿に移る。1801年(享和1年)3月27日入室得度。戒師は聖護院盈仁法親王。1806年(文化3年)1月26日、大僧正。1822年(文政5年)3月、大雲寺本尊開帳の導師を務める。1826年(文政9年)1月30日一身阿闍梨。1826年(文政9年)3月29日、園城寺で盈仁法親王から灌頂。同年から1829年(文政12年)まで護持僧。1830年(天保1年)11月22日、園城寺長吏。1832年(天保3年)2月28日、雄仁親王得度の戒師を務める。3月9日、長吏を辞任。11日死去。45歳。墓は実相院宮墓地の横にある。観真明院と号す。
  • 義賢(1829-1858)<1832-1858>:左大臣二条斉信の子。1829年(文政12年)生。幼称は棟君。1832年(天保3年)付弟となる。1842年(天保13年)岩倉別殿に移る。1846年(弘化3年)得度。1858年(安政5年)死去。義賢の後、20年余り無住。
  • 石座密道(生没年不詳)<>:1878年(明治11年)11月22日、聖護院を兼務(翌年まで)。1880年(明治13年)11月22日、山科祐玉を大阿闍梨として伝法灌頂を受ける。運営に失敗し1893年(明治26年)に罷免されたという[1]。(聖護院門跡要覧)『望月仏教大辞典』。
  • 高田俊興()<>:自坊は香川県長尾寺。石座密道の罷免後に和田慶玄と共に事務取扱となり、1894年(明治27年)10月に正式に住職となった[2]。『望月仏教大辞典』
  • 直林敬円(?-1922)<>:園城寺長吏124世。聖護院門跡。円満院門跡。1906年(明治39年)2月16日長吏就任(官報)。1922年(大正11年)死去。『望月仏教大辞典』
  • 俊良()<>:『望月仏教大辞典』
  • 田中道淳(1868-)<>:1868年(明治1年)生。1935年(昭和10年)4月26日、長吏就任(官報)。1941年(昭和16年)3月31日、天台三派合同により管長退任。
  • 中西猷淳()<>:1978年(昭和53年)10月29日死去。
  • 原敬泉()<>
  • 『日本仏家人名辞書』
  • 『望月仏教大辞典』
  • 「実相院門跡」『諸門跡承伝系図』[3]
  • 「諸門跡伝4―実相院」『華頂要略』143[4]


資料

  • 実相院文書:大雲寺関係を含み、多数の古文書が残る。
  • 実相院門跡承伝系図
http://shinden.boo.jp/wiki/%E5%AE%9F%E7%9B%B8%E9%99%A2」より作成

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