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小墾田宮
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2021年5月6日 (木)
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- | '''小墾田宮'''(おはりだのみや)は、大和国高市郡[[飛鳥]](奈良県高市郡明日香村雷)にあった[[推古天皇]]の[[皇宮]]。[[皇極天皇]]も即位直後の一時期に使った。[[淳仁天皇]]や[[称徳天皇]] | + | '''小墾田宮'''(おはりだのみや)は、大和国高市郡[[飛鳥]](奈良県高市郡明日香村雷)にあった[[推古天皇]]の[[皇宮]]。[[皇極天皇]]も即位直後の一時期に使った。[[淳仁天皇]]や[[称徳天皇]]の行宮にもなった。跡地は雷内畑遺跡(いかづちうちばたいせき)や雷丘東方遺跡の一帯とする説が有力。'''小治田宮 '''(『古事記』)、 '''少治田宮'''(『上宮聖徳法王帝説』)、 '''小治田大宮'''(「法隆寺薬師如来光背銘文」)。 |
== 歴史 == | == 歴史 == | ||
- | 小墾田は以前から[[蘇我氏]] | + | 小墾田は以前から[[蘇我氏]]の根拠地の一つだった。『日本書紀』によれば推古天皇は603年(推古11年)10月に豊浦宮から移り、628年(推古36年)3月の崩御まで使われた。政権を主導した摂政の[[聖徳太子]]は[[斑鳩宮]]から通った。その往復に使われた太子道の終点ともされる。620年(推古28年)には南庭に[[須弥山]]の模型が建てられた。推古天皇の殯宮も南庭に建てられた。また皇極天皇も643年(皇極2年)4月まで使用した。 |
- | + | その後も施設は存続し、672年(弘文1年/天武1年)の壬申の乱の時には武器庫があったらしい。 | |
- | + | 奈良時代になっても760年(天平宝字4年)8月から翌年1月頃まで淳仁天皇が滞在。天皇が同月にわずかに滞在した[[小治田岡本宮]]も近くにあったと思われる。765年(天平神護1年)10月、紀伊国への行幸の途中に称徳天皇が立ち寄った。 | |
'''小墾田禅院'''、'''小墾田寺'''という寺院の存在も史料にみられるが[[豊浦寺]]とみなすことが多いようだ。 | '''小墾田禅院'''、'''小墾田寺'''という寺院の存在も史料にみられるが[[豊浦寺]]とみなすことが多いようだ。 | ||
- | + | 跡地の探索では奈良県高市郡明日香村豊浦古宮の地が有力視されてきたが、1987年(昭和62年)に[[雷丘]]の南にある雷内畑遺跡や雷丘東方遺跡から「小治田宮」との墨書がある土器が多数出土し、有力視されている。 | |
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2021年5月6日 (木) 時点における最新版
小墾田宮(おはりだのみや)は、大和国高市郡飛鳥(奈良県高市郡明日香村雷)にあった推古天皇の皇宮。皇極天皇も即位直後の一時期に使った。淳仁天皇や称徳天皇の行宮にもなった。跡地は雷内畑遺跡(いかづちうちばたいせき)や雷丘東方遺跡の一帯とする説が有力。小治田宮 (『古事記』)、 少治田宮(『上宮聖徳法王帝説』)、 小治田大宮(「法隆寺薬師如来光背銘文」)。
歴史
小墾田は以前から蘇我氏の根拠地の一つだった。『日本書紀』によれば推古天皇は603年(推古11年)10月に豊浦宮から移り、628年(推古36年)3月の崩御まで使われた。政権を主導した摂政の聖徳太子は斑鳩宮から通った。その往復に使われた太子道の終点ともされる。620年(推古28年)には南庭に須弥山の模型が建てられた。推古天皇の殯宮も南庭に建てられた。また皇極天皇も643年(皇極2年)4月まで使用した。 その後も施設は存続し、672年(弘文1年/天武1年)の壬申の乱の時には武器庫があったらしい。 奈良時代になっても760年(天平宝字4年)8月から翌年1月頃まで淳仁天皇が滞在。天皇が同月にわずかに滞在した小治田岡本宮も近くにあったと思われる。765年(天平神護1年)10月、紀伊国への行幸の途中に称徳天皇が立ち寄った。 小墾田禅院、小墾田寺という寺院の存在も史料にみられるが豊浦寺とみなすことが多いようだ。
跡地の探索では奈良県高市郡明日香村豊浦古宮の地が有力視されてきたが、1987年(昭和62年)に雷丘の南にある雷内畑遺跡や雷丘東方遺跡から「小治田宮」との墨書がある土器が多数出土し、有力視されている。