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川原寺
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2021年5月5日 (水)
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+ | 673年(天武2年)、日本初の大蔵経写経が行われた。 | ||
+ | 金堂、三重塔、食堂、僧房、東南院、西南院などがあった。奈良時代末、勤操が別当になっている。 | ||
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+ | (日本歴史地名大系、国史大辞典) | ||
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+ | ([[川原寺]]と[[大和・弘福寺]]の記事の住み分けを見直し中) | ||
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2021年5月5日 (水) 時点における最新版
川原寺(かわらでら)は、天智天皇が川原宮跡に創建した古代寺院。現在の大和・弘福寺。飛鳥・藤原京時代の官寺四大寺の一つ。河原寺、弘福寺とも呼ばれた。
歴史
敏達13年(584)、蘇我馬子が創建した(諸寺縁起集)とも655年(斉明1年)10月、飛鳥川原宮を寺院とした(元亨釈書、扶桑略記)ともいう。天智天皇が創建ともいう。古瓦から白鳳時代の造営とみられる。 673年(天武2年)、日本初の大蔵経写経が行われた。 金堂、三重塔、食堂、僧房、東南院、西南院などがあった。奈良時代末、勤操が別当になっている。
832年(天長9年)11月、嵯峨天皇が空海に川原寺を下賜(水鏡)。東寺と高野山を往復する際の宿所としたと伝え、川原寺東南院に住したという。以後、東寺末となったという。 空海門下の真雅や真然が弘福寺検校となり真言宗寺院となっていく。寛平6年に検校になった聖宝は十一面観音像を造立している。
1191年(建久2年)焼失。鎌倉時代には東大寺戒壇院円照門下の教弁が食堂、僧房を再建。室町時代末期に雷火で大打撃を受け、衰退した。 1957年(昭和32年)から翌年の調査で伽藍跡の全容が判明した。
(日本歴史地名大系、国史大辞典)
(川原寺と大和・弘福寺の記事の住み分けを見直し中)