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後一条天皇陵
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
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- | 1036年(長元9年)に崩御し、神楽岡の東麓で火葬された。葬儀の様子は『左経記』に詳しく記されている。いったん[[ | + | 1036年(長元9年)に崩御し、神楽岡の東麓で火葬された。葬儀の様子は『左経記』に詳しく記されている。いったん[[京都・浄土寺]]に遺骨を納められたが、母の上東門院藤原彰子が[[菩提樹院]]を火葬所に創建し、そこに御堂が建立され、陵墓となった。文久の修陵で現在地が「御火所」とされ整備された。 |
1889年(明治22年)もともと火葬塚として指定していたところを、陵と指定した。 | 1889年(明治22年)もともと火葬塚として指定していたところを、陵と指定した。 | ||
現在地の円墳は、寺院跡としては不自然だという。文久山陵図230 | 現在地の円墳は、寺院跡としては不自然だという。文久山陵図230 |
2014年12月22日 (月) 時点における版
1036年(長元9年)に崩御し、神楽岡の東麓で火葬された。葬儀の様子は『左経記』に詳しく記されている。いったん京都・浄土寺に遺骨を納められたが、母の上東門院藤原彰子が菩提樹院を火葬所に創建し、そこに御堂が建立され、陵墓となった。文久の修陵で現在地が「御火所」とされ整備された。 1889年(明治22年)もともと火葬塚として指定していたところを、陵と指定した。 現在地の円墳は、寺院跡としては不自然だという。文久山陵図230