ようこそ『神殿大観』へ。ただいま試験運用中です。 |
京都・浄土寺
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2020年6月28日 (日)
浄土寺(じょうどじ)は、京都府京都市左京区銀閣寺町にあった天台宗の門跡寺院。現在の慈照寺(銀閣寺)のあたり。廃絶。銀閣寺総門北にある浄土宗浄土院が後継寺院とされる。八神社が鎮守だったという。「浄土寺」の地名も残る。
歴史
創建不詳。円珍が一時滞在。986年(寛和2年)には藤原暁子が浄土寺で出家して尼となった(『日本紀略』)。暁子は有明親王(醍醐天皇皇子)の妃で、その子、明救(946-1020)が1019年(寛仁3年)に再興(『天台座主記』には開創とある)。1036年(長元9年)後一条天皇の遺骨が浄土寺に一時奉安された(『日本紀略』。のち神楽岡の菩提樹院後一条天皇陵に改葬された)。1175年(安元1年)建春門院が行啓。1182年(寿永1年)、後白河法皇の寵愛を得た高階栄子が亡夫平業房の菩提を弔うために堂宇を建てた(『百錬抄』)。後白河法皇も御幸。この頃、摂津・総持寺や勝尾寺を末寺としていた。
鎌倉時代、三条公房は「浄土寺相国」と呼ばれ、九条師教は「浄土寺前関白」(『徒然草』)と呼ばれており、何らかのゆかりがあったらしい。1449年(宝徳1年)火災で伽藍を焼失(康富記)。1483年(文明15年)、将軍足利義政が東山山荘(のちの慈照寺)建設のために相国寺の西の北築山町に移転させたがまもなく廃絶。あるいはわずかな草堂のみが残っており、これを1732年(享保17年)浄土宗の随誉が復興し、旧地に復して浄土院とした。浄土院本尊の阿弥陀如来は浄土寺の旧仏と伝える。1957年(昭和32年)、旧境内と思われる浄土寺南田町から鎌倉時代の経塚が発見され、浄土寺経塚と呼ばれている。(『国史大辞典』『日本歴史地名大系』)
組織
住職
- 1明救(946-1020):天台座主。醍醐天皇の孫。有明親王の王子。延昌の弟子で、同門に空也がいる。浄土寺僧正と呼ばれた。
- 2円基():天台座主。近衛基通(1160-1233)の子。金剛寿院と号した。
- 3尋基():
- 4慈勝():天台座主。『太平記』に言及あり。近衛家基(1261-1296)の子。
- 5慈伝():
- 6慈忠():
- 7慈弁():
- 8政弁():
- 9慈禅():天台座主。
- 10慈基():天台座主。鷹司兼平(1228-1294)の子。
- 11政玄():
- 12尊基():
- 13禅基():
- 14覚尋():
- 15相豪():
- 16仁操():
- 17持弁():
- 18弁雅():天台座主。
- 19義尋(1439-1491):足利義視。室町幕府将軍6代足利義教の十男。1443年(嘉吉3年)浄土寺に入寺。兄の義政(8代将軍)に子がいないため、1464年(寛正5年)にその後嗣となり還俗して足利義視と名乗る。しかし翌年、義政に実子義尚が生まれたため後継者争いが勃発。1467年(応仁1年)に始まる応仁の乱の直接的要因となる。同年5月、北畠教具を頼って伊勢に逃亡。翌年9月、義政の説得で上京。細川勝元の東軍の陣に入った。しかし兄弟不和のため、11月には山名持豊の西軍側に付いた。1477年(文明9年)和平の動きがあり、土岐成頼を頼って美濃に下った。翌年和睦。1489年(延徳1年)、上京して通玄寺に入り、再び出家。道存と称した。翌年、義政が死去すると、子の足利義材が将軍となり、義視が幕政の実権を握り、大御所と呼ばれた。通玄寺で死去。菩提寺は相国寺大智院。(国史大辞典)
- 20慈静
(『日本仏家人名辞書』『望月仏教大辞典』)