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応神天皇陵
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2013年1月27日 (日)
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+ | *[[天皇皇族の陵墓]] | ||
+ | *[[八幡信仰]] | ||
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==概要== | ==概要== | ||
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- | '''誉田御廟山古墳''' | + | '''誉田御廟山古墳'''は、応神天皇陵に治定されている古墳。古市古墳群に含まれる。かつては、[[誉田八幡宮]]の神域に含まれていた。中世の正平年間(1346-70)には誉田城が築かれていたという。江戸時代、幕府による数度の修復においては一貫して誉田御廟山古墳が応神天皇陵として修復された。幕末の文久の修陵においては、誉田八幡宮と分離され、北側の前方部に新たに拝所が設けられた。1864年(元治1年)5月に開始され、1865年(慶応1年)2月に竣工した。3050両が費やされたという。これは実に神武天皇陵に次ぐ経費であった(『文久山陵図』211)。これが現在の形態の基礎となった。江戸時代中期に後円部墳丘上部に誉田八幡宮により六角堂が建てられたが、1883年(明治16年)に撤去された。周囲は史跡「応神天皇陵古墳外濠外堤」に指定されている。治定陪冢が域内に2基、域外に6基ある。 |
===百舌鳥御廟山古墳=== | ===百舌鳥御廟山古墳=== | ||
'''百舌鳥御廟山古墳'''を応神天皇の初葬地とする伝承がある。[[百舌鳥陵墓参考地]]を参照。 | '''百舌鳥御廟山古墳'''を応神天皇の初葬地とする伝承がある。[[百舌鳥陵墓参考地]]を参照。 | ||
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+ | 西が百舌鳥御廟山古墳(百舌鳥陵墓参考地)と百舌鳥八幡宮<br> | ||
+ | 東が誉田御廟山古墳(現・応神天皇陵)と誉田八幡宮 | ||
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==参考文献== | ==参考文献== | ||
*『河内名所図会』 | *『河内名所図会』 | ||
*『大阪府史跡名勝天然記念物』 | *『大阪府史跡名勝天然記念物』 | ||
*『文久山陵図』 | *『文久山陵図』 | ||
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+ | ファイル:oujin_tenno_ryo_01.jpg|拝所 | ||
+ | ファイル:oujin_tenno_ryo_02.jpg|入口 | ||
+ | ファイル:Konda hachimangu 06.jpg|誉田八幡宮 | ||
+ | ファイル:Oujin tenno ryo 03.jpg|『文久山陵図』に描かれた応神天皇陵後円部の堂と誉田八幡宮(荒蕪図・部分)。 | ||
+ | ファイル:Mozu sannkochi 01.jpg|応神天皇の初葬地という伝承がある百舌鳥陵墓参考地。 | ||
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+ | [[category:個別記事]] | ||
+ | [[category:大阪府]] |
2013年1月27日 (日) 時点における最新版
応神天皇陵 おうじんてんのう りょう | |
概要 | 応神天皇の陵墓。 |
所在地 | 大阪府羽曳野市誉田6丁目 |
所在地(旧国郡) | 河内国古市郡 |
陵墓種別 | 天皇陵 |
関連記事 | |
目次 |
概要
恵我藻伏崗陵。(執筆中)
候補古墳
誉田御廟山古墳
誉田御廟山古墳は、応神天皇陵に治定されている古墳。古市古墳群に含まれる。かつては、誉田八幡宮の神域に含まれていた。中世の正平年間(1346-70)には誉田城が築かれていたという。江戸時代、幕府による数度の修復においては一貫して誉田御廟山古墳が応神天皇陵として修復された。幕末の文久の修陵においては、誉田八幡宮と分離され、北側の前方部に新たに拝所が設けられた。1864年(元治1年)5月に開始され、1865年(慶応1年)2月に竣工した。3050両が費やされたという。これは実に神武天皇陵に次ぐ経費であった(『文久山陵図』211)。これが現在の形態の基礎となった。江戸時代中期に後円部墳丘上部に誉田八幡宮により六角堂が建てられたが、1883年(明治16年)に撤去された。周囲は史跡「応神天皇陵古墳外濠外堤」に指定されている。治定陪冢が域内に2基、域外に6基ある。
百舌鳥御廟山古墳
百舌鳥御廟山古墳を応神天皇の初葬地とする伝承がある。百舌鳥陵墓参考地を参照。
西が百舌鳥御廟山古墳(百舌鳥陵墓参考地)と百舌鳥八幡宮 |
参考文献
- 『河内名所図会』
- 『大阪府史跡名勝天然記念物』
- 『文久山陵図』